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2009年8月25日火曜日

筑波山に登る

この前の日曜日、妻子を連れ、久し振りに筑波山に登った。
筑波神社前の土産物屋で昼食。冷やしたぬきうどん。
まあ予想通りの味。
境内でガマの油売りの口上をやっている。
長男が食い入るように見る。いい客だ。
三代目柳好の名調子を、今度聴かせてやろう。
ケーブルカーで宮脇駅から筑波山頂駅へ。
気温は22度。肌寒いくらい。
御幸ヶ原、コマ展望台に上る。円形のゆっくりと回る展望台。
西に男体山、東に女体山、南東に霞ヶ浦を望む。屋上の眺望、素晴らしい。
宮脇駅に下り、売店で休憩。梨のソフトクリームとところてん。
次男はところてんを大喜びで食べる。
日曜日でけっこうな賑わい。次はロープウエイに乗せてやろう。

2009年8月21日金曜日

夏目漱石『草枕』

『草枕』。漱石初期の名作である。
非人情を志向する画工が山中の温泉宿に滞在し、そこで一人の美しい女と知り合う。
女は宿の出戻り娘、那美。彼女と画工との交流を中心に話は進む。
しかし、この小説、ストーリーはさほど重要ではない。
それは単に設定に過ぎず、漱石の東西の比較文化論・芸術論が、画工の口を通し存分に展開される。
西洋の芸術が、あくまで関係性・愛憎といった人と人の情との関わりの中で生まれるのに対し、中国に代表される東洋の芸術は、人の世にありながら人の情を超越したところに生命がある。それが画工の憧れる非人情の境地である。
それにしても絢爛たる文章だな。漱石は『草枕』執筆に際し、『楚辞』を読み返したというが、そこで駆使される漢語の美しさといったらない。
初めて読んだのは高校の時だが、当時は何だか分からなかったなあ。
この文章の凄さが分かったような気がしたのは、30歳を過ぎてからだった。
今読み返すと、けっこう色っぽい場面が多い。
画工と那美との混浴シーンは有名だ。その他にも、夜中に那美が就寝中の画工の部屋に入ってくる出会いの場面。那美が振り袖を着て画工の目前を行き来する場面。那美と元夫とのやりとりを画工が盗み見る場面。どれも色っぽい。
確かに、妖艶ではある。だが、そこに性的な匂いはない。
二人の会話も、お互いに好意は認められるものの、恋情に向かう気配はない。
画工にとって那美は肉体を持った生身の女というより、一個の美術品・鑑賞物であるかのようだ。
山中の温泉宿で美女と知り合うという点では、川端康成の『雪国』も同じ作りだ。
ということは、『雪国』は『草枕』のオマージュであったか。
『雪国』の島村は、駒子と肉の交わりは持つが情の交わりを持とうとはしない。もしかしたら、これも川端なりの非人情なのかもしれない。

2009年8月12日水曜日

桂文楽 黒門町へ

鵜飼富貴から逃げた文楽は、横浜の芸者しんと3度目の結婚をする。しんは文楽より10も年上だった。
このしんという女は大変な浮気者で、東西を問わず多くの芸人と関係を持っていた。言うまでもなく、この結婚に対して楽屋の評判は最悪だった。
弟子の文雀がこのことを注進に及ぶと、文楽は腹を立て、文雀を破門してしまう。
でも、この破門はそれだけが理由ではない。文雀はしばしば師匠が主任の時に持ってくるワリ(寄席の出演者のギャラ)をくすねていた。寄席芸人として最もやってはいけないことである。
こののち文雀は吉原の牛太郎となったが、それもしくじり、名古屋に落ちて幇間となる。結局、東京に戻って文楽に再入門するのだが、その時文雀は40歳を過ぎていた。
この結婚で文楽は西黒門町に居を構える。木造2階建ての小粋な家だった。
建坪は10坪ほど。庭もない小さな家だったが、家具が全てはめ込みとなっていた。そのため、畳の上には何一つ載っていない。ただ一つ、師匠五代目左楽から文楽襲名の祝いに贈られた長火鉢が、でんと鎮座していた。
後年、文楽は「黒門町の師匠」と呼ばれたが、その家がこれだった。
現在家は取り壊され、空き地となっている。落語協会事務所の広小路側から少し奥、右側の小さな空き地がそれである。
果たして、この結婚は瞬く間に破綻した。
しんと別れた直後、文楽は4度目の結婚をする。神田明神で式を挙げ、講武所の「花屋」という料亭で披露宴をした。
この相手が「長屋の淀君」と呼ばれ、長年の間君臨した寿江夫人である。

2009年8月10日月曜日

家族旅行

先日、一家で那須・塩原に行く。
初日は那須・南が丘牧場で遊ぶ。
ソフトクリーム、濃厚。旨し。
その後、塩原・化石博物館。けっこう子どもが喜ぶ。
塩原・梅川荘に宿泊。山の上。いいお湯。感じのいい接客。
長男は夕食時、座敷の舞台で「寿限無」をやる。
翌日はりんどう湖。
息子二人、汗だくで遊ぶ。
楽しかった。また行こうね。息子二人が繰り返し言う。
子どもたちの喜んでくれたのが、何より嬉しい。

2009年8月9日日曜日

初めての寄席

寄席に初めて行ったのは、中学を卒業した年の春休みだった。
高校の合格祝いも兼ねて、父親が上野の鈴本へ連れて行ってくれたのだ。
芸術協会の興行(現在は鈴本で芸術協会の興行はない)で、NHKの「お好み演芸会」の収録がある日だった。
今でもその日の様子は覚えている。
柳好『道具屋』。圓馬『三人癖』。助六『あやつり』。いずれも先代である。
色物も充実していた。獅子てんや・瀬戸わんやの漫才。やなぎ女楽の曲独楽。
ひっくり返って笑い、目を凝らして見つめた。夢のような一時だった。
主任は六代目春風亭柳橋。ここから、TVの収録が入る。
ネタは『山号寺号』。子どもの私にとっては、全く面白くはなかったが、この人は偉い人なんだな、ということは分かった。
この後に、「針すなおの似顔絵コーナー」というのがあった。
針すなおが、赤い達磨にゲスト(この日は春風亭柳橋である)の似顔絵を描き、客にプレゼントをするという趣向である。
司会の桂米丸が「欲しい人は手を挙げてください」と言うと、一斉に客が手を挙げる。
私は学帽を振り回したが、結局、柳橋は他の人を指名した。
米丸は「そこの学生さんが帽子を振ってくれたんですがね」とすまなそうに言ってくれた。
最後は大喜利「はなしか横町」。
司会は若き日の柳家小三治。メンバーは、柳家さん八、桂文朝、三遊亭歌奴、三遊亭圓弥、三笑亭夢二(現夢太郎)といった面々。文朝、歌奴、圓弥は既に鬼籍に入った。皆あの頃はまだ若手だった。小朝が、笑点の山田君のような役割で出ていた。
NHKだけに「笑点」のようなはじけ方はなかったが、それでも私にとっては十分に面白かった。
この日のことは、私にとって大切な思い出となった。
いつか我が子も寄席に連れて行ってあげたいと思う。かつての私のように、喜んでくれるとは限らないのだが。