鵜飼富貴から逃げた文楽は、横浜の芸者しんと3度目の結婚をする。しんは文楽より10も年上だった。
このしんという女は大変な浮気者で、東西を問わず多くの芸人と関係を持っていた。言うまでもなく、この結婚に対して楽屋の評判は最悪だった。
弟子の文雀がこのことを注進に及ぶと、文楽は腹を立て、文雀を破門してしまう。
でも、この破門はそれだけが理由ではない。文雀はしばしば師匠が主任の時に持ってくるワリ(寄席の出演者のギャラ)をくすねていた。寄席芸人として最もやってはいけないことである。
こののち文雀は吉原の牛太郎となったが、それもしくじり、名古屋に落ちて幇間となる。結局、東京に戻って文楽に再入門するのだが、その時文雀は40歳を過ぎていた。
この結婚で文楽は西黒門町に居を構える。木造2階建ての小粋な家だった。
建坪は10坪ほど。庭もない小さな家だったが、家具が全てはめ込みとなっていた。そのため、畳の上には何一つ載っていない。ただ一つ、師匠五代目左楽から文楽襲名の祝いに贈られた長火鉢が、でんと鎮座していた。
後年、文楽は「黒門町の師匠」と呼ばれたが、その家がこれだった。
現在家は取り壊され、空き地となっている。落語協会事務所の広小路側から少し奥、右側の小さな空き地がそれである。
果たして、この結婚は瞬く間に破綻した。
しんと別れた直後、文楽は4度目の結婚をする。神田明神で式を挙げ、講武所の「花屋」という料亭で披露宴をした。
この相手が「長屋の淀君」と呼ばれ、長年の間君臨した寿江夫人である。
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