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2009年9月22日火曜日

桂文楽 鶴本の志ん生

文楽が馬之助時代の話である。当時から彼は売れに売れていた。楽屋に寿司は届く。女にはもてる。お座敷はかかる。言うことなしの筈だった。
しかし、彼の心は沈んでいた。自分の噺がまずく思えて仕方がなかった。スランプだった。
ある時、四代目古今亭志ん生、人呼んで「鶴本の志ん生」が文楽に声を掛けた。
「お前さん、たいそうな売れっぷりだってのに、何だってそんなうかねえ顔をしてるんだい?」
「へえ、実は…。」と文楽は、自分の心情を志ん生に打ち明けた。すると志ん生は優しくこう言ってくれた。
「そうか、その時期が来たか。大丈夫だ。それは上手くなるトバクチだよ。ここを辛抱すれば、お前さん、きっといい噺家になれるぜ。」
「鶴本の志ん生」は若いうち「狂馬楽」こと三代目蝶花楼馬楽、「盲の小せん」こと初代柳家小せんとともに放蕩無頼の生活を送っていた。が、三人とも芸は確かだった。馬楽と小せんは先に認められたが、二人はやがて業病に倒れる。「鶴本」は金原亭馬生を襲名し、花開く。その歌い調子の江戸前の芸は多くのファンを魅了した。人間はずぼらだったが、懐は深く、誰からももてあまされた後の五代目志ん生を弟子にしてやり、面倒を見ていた。文楽もこの「鶴本」が好きだった。その志ん生にそう言われて嬉しかったのだろう。当時付き合っていた芸者に、志ん生の素晴らしさを熱心に語った。
そんな折り、文楽が寄席の高座から客席を見ると、件の芸者が来ている。これから彼女とどこへ行こうかと楽しみにしながら文楽が楽屋に戻ると、志ん生が「晩飯に付き合ってくれ」と言う。普段、尊敬している志ん生に誘われて、いつもは嬉しいところだが、この日ばかりはいささか迷惑だった。しかし、断るわけにもいかず、指定された鳥料理の「玉ひで」に行く。すると、座敷では志ん生と彼女が飲んでいた。怪訝な顔をしている文楽に志ん生は言った。「まあ、早い話が、お前さんに七両二分やらなきゃならねえってこった。」
江戸時代、間男は死罪となったが、亭主に七両二分払えば命は助かった。つまり、その芸者と志ん生はできてしまったのだ。逢うたびに文楽から志ん生礼賛を聞かされた彼女は、いつの間にか志ん生に憧れを抱くようになった。文楽にせがんで志ん生と一席設ける。それがきっかけでこのようなことになったのだという。
口惜しかったが、最早どうしようもない。文楽はこの口惜しさを噺に生かそうと考える。この気持ちは『刀屋』そのものじゃないか。
『刀屋』は『おせつ徳三郎』の後半部分。おせつが婿を取ると聞いた徳三郎が、無理心中をしてやろうと刀を買いに行き、刀屋の主人に諭される噺だ。
『刀屋』は文楽の得意ネタにはならなかったが、彼の芸に対する姿勢を、このエピソードはよく示している。
文楽は、あらゆる経験を、貪欲に自分の芸に取り入れようとした。贔屓のひーさんとの交流は幇間ものに、『酢豆腐』の若旦那のモデルを奇人三遊亭圓盛に求め、キレやすい自分自身を『かんしゃく』に投影させることさえした。
柳家小満んは食事の時、文楽からおかずをもらった時、「うまいかい。」と訊かれたという。「はい。」と答えると文楽は言った。「うまいと思ったら、それが芸ですよ。」
日常生活のひとつひとつの心の動きを、文楽は噺に取り入れていた。つまり、生きることは、文楽にとって芸そのものだったのだ。

2009年9月17日木曜日

さん喬と権太楼

今、東京の寄席で双璧と言えば、柳家さん喬と柳家権太楼だな。
落語界では、春風亭小朝、立川志の輔といったスターはいるが、寄席を主戦場にしている点では先に挙げた二人にとどめを刺すと思う。
私は、実は寄席派の噺家が好きなのだ。
立川談志や彼に影響を受けた人たちは、寄席をぬるま湯だといって批判する。
しかし、と私は思う。独演会の客は自ら選んで来ている。つまり、観客に自分の芸を受け容れてくれる下地がある。
それに対し寄席の客は多様だ。ただの暇つぶしから落語マニアまで、芸に対する関心度の幅はおそろしく広い。しかも毎日だ。その日によって客の傾向も全く違うだろう。勝負しようと思えばけっこう奥が深い場所なのではないか。
さん喬の二つ目時代を、私は旧池袋演芸場でよく観た。きちっとした楷書の芸で折り目正しく、いかにも本格派といった雰囲気があった。しかし、それを立川談志は著書『あなたも落語家になれる』の中で、「あまりに古い」といって名指しで批判した。同じ五代目柳家小さん門下のカリスマの批判に、さん喬もショックを受けたと思う。
今、さん喬の芸を古いと感じる人はいないだろう。さん喬の噺は、年月を経て大きく柔らかに膨らんできた。そして、現代を生きる我々に、確かに響いてくる。彼の『文七元結』はいい。左官の長兵衛が、吾妻橋で身を投げようとしている文七に、娘が身を売って作った金を遣る場面。談志は迷いに迷う、その葛藤を見せ場にしている。しかし、さん喬の長兵衛は小さくこう呟く。「おれも運のねえ男だなあ。」そして、あっさりと文七に金を遣ってしまうのだ。談志が葛藤なら、さん喬は諦念だ。どちらも分かっていながら自分に損な方を選んでしまう。その意味では両方とも「人間の業の肯定」に変わりない。さん喬は談志と違うやり方で現代に迫ったのだと思う。
談志の影響をストレートに受けたのは権太楼の方だろう。『らくだ』の紙屑屋の感情の吐露などは、まさにそれを感じさせる。一方で桂枝雀の影響も顕著だ。特にそれは『代書屋』『金明竹』などの滑稽噺に色濃く表れている。しかし、権太楼の偉いのは二人の影響を感じさせながら、出来上がった落語は紛れもなく権太楼のものになっているということである。むしろ、権太楼節として強烈な個性を放っていると言った方がいいかもしれない。
さん喬と権太楼の芸は対照的と言っていい。端正で色気のあるさん喬と豪放で男っぽい権太楼。この二人が「鈴本夏祭り」などでしのぎを削る様を観ることができるのは、この時代に立ち会える幸福を感じずにはいられない。新たな「文楽・志ん生」を、「志ん朝・談志」を、我々は目の前にしているのかもしれないのだ。

2009年9月9日水曜日

三遊亭圓丈『ろんだいえん』

三遊亭圓丈。言わずと知れた新作落語の旗手である。
闘う男だ。圓丈の言葉はいつも熱い。
その圓丈が遺言のつもりで書いたのが、本書である。
落語論、落語台本論、落語演技論が、圓丈によって思う存分語られる。そして、そこには新作落語を数多の偏見をはね返し牽引してきたこと、六代目圓生の弟子として三遊亭の本流を受け継いでいることへの強烈な自負がにじむ。
圓丈の怒りは古典の伝統に胡座をかき、何の工夫もない落語家に向かう。古典落語を信奉し、落語の大衆演芸としての生命を細らせる落語愛好家へ向かう。
圓丈は客にウケるためにのたうち回る。高座の上ではベテランも若手もない。勝負は客の反応だ。それが潔い。

圓丈は1980年頃、「グリコ少年」で、スポットライトを浴びた。
私が圓丈を知ったのもこの頃だ。「グリコ少年」はもちろん、「悲しみは埼玉に向けて」「夢地獄」「パニックイン落語界‘80」等々に私たちは大きなショックを受けた。ぶっとんだ面白さだった。そして伝説の池袋演芸場三題噺。圓丈は時代の先端を疾走していた。
ただ、圓丈にはテレビの人気者として定着するには、知的で毒があり、ちょっとばかりマイナーな匂いがした。程なく圓丈はテレビの表舞台からは去る。
しかし、圓丈は自ら切り開いた新作落語の道を突き進む。彼の先鋭的な噺は、時に理解を得られないこともあったが、やがて時代が彼に追いついてくる。
立川志の輔や春風亭昇太が自作の新作落語を引っさげ、華々しく登場し、それに続いて柳家喬太郎、三遊亭白鳥、林家彦いちなどの「圓丈チルドレン」が表舞台に立ってきた。
彼らには圓丈の影響が色濃く見られたし、この新作落語の隆盛を圓丈の功績と認めない者はいないと思う。さらに圓丈の凄いのは、「新作落語の大御所」として君臨するのではなく、彼らとムキになって競うところなのだ。

圓丈を男だなあと思ったのは、「御乱心」の刊行であった。
圓生一門による三遊協会設立騒動を描いたこの本で、圓丈は痛烈な三遊亭圓楽批判を展開した。そこには三遊本流をずたずたにした圓楽への激しい怒りがあった。そして、それは私憤ではなく、正しく義憤と言われるものであったと私は思う。
この一件で圓丈もダメージを受けた。「御乱心」刊行後、圓丈はおろか彼の弟子も、1度として「笑点」に出演していない。

どれもよかったが、私としては落語演技論が面白かったな。
型から入って内面に迫る三遊亭の演出が、つぶさに語られている。圓丈は、まぎれもなく三遊本流を受け継ぐ落語家なのだ。
ただ残念だったのは、誤植が多いこと。せっかく圓丈が渾身の力を込めて書いた本だ。出版社ももう少し努力してもいいだろう。

2009年9月6日日曜日

桂文楽 ひーさん

大正14年、文楽は寿江と結婚式を挙げた。
当時、落語家で結婚式を挙げる例は少なく、後年まで文楽はこれを自慢した。
その式で仲人を務めたのが、樋口由恵。長年文楽のお旦であり、「つるつる」の旦那ひーさんのモデルとしても有名な人物である。
文楽と樋口との出会いは、関東大震災(大正12年)から間もなくであった。
向島の待合いから寄席に電話が来て文楽が呼ばれた。
何でも客が文楽を呼べと言って聞かず、とにかく来てもらいたい、来てくれないと困る、とのことだった。
それが樋口だった。文楽が呼べないのか、と言って芸者に暴力さえふるっていたらしい。
恐る恐る文楽が座敷に出ると、樋口は「文楽が来た」といって大喜び。それ以降、樋口は文楽を大の贔屓とすることになった。
文楽は樋口のお供の際は、必ず幇間を呼んでもらった。そして、座敷での幇間の立ち居振る舞い、客とのやりとりを観察する。
やがて、それは「鰻の幇間」「つるつる」「富久」「王子の幇間」など幇間ものの十八番となって結実した。
樋口が呼ぶのは一流の幇間だった。だから、文楽の演じる幇間は、野幇間であっても、どこかしら気品があった。
樋口は暴君だった。無理も言えば、女も殴った。
しかし、文楽は樋口に付き従うことで、暴君の孤独も知る。
噺の中で、一八が旦那に振り回されながら、それでいてどこかで許しているような気配があるのは、その辺に所以があるような気がする。
もちろん芸人とお旦である。そこには絶対的な服従関係があるのは間違いない。けれども、一八と旦那には、それだけではない心の交流がある。
文楽と樋口もそんな心の繋がりがあったのだと思う。
文楽は、三代目圓馬に、五代目左楽に、本気で付き従うことで多くのものを吸収した。多分、樋口もその意味では、文楽にとって師の一人といっていいのかもしれない。

2009年9月1日火曜日

日本酒の夜

「しらたまの歯にしみとほる秋の夜酒は静かに飲むべかりけり」(若山牧水) 
秋である。秋にはやはり日本酒である。あぢいあぢい、うぐうぐぷはーっ、うめーっというような、ビールとともに過ごした日々ともそろそろ別れを告げ、しみじみと日本酒に親しむ季節なのである。 
日本酒と言うと、どこか居住まいを正す感じがする。芳香鮮美、清澄淡白。そんな酒をコップに注ぐ。思わず正座をしてしまう。こういう時にポテトチップなんぞをつまみにしちゃあいけない。塩辛、佃煮なんてのをすこしずつ、つまみたい。 
そして、何と言っても灯火親しむ秋、活字をつまみに飲むのがいい。意外にいいのが漢詩である。陶淵明の「菊を採る東リの下 悠然として南山を見る」とか、李白の「頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を想ふ」などを読みながらの酒は、また一段とうまいものである。陶淵明にしろ李白にしろ酒豪として知られるが、中国の人であるから日本酒を飲みながらこれらの詩を作ったわけではあるまい。それでいて、これらに合うのは、紹興酒よりもむしろ日本酒であろう。不思議なものである。 
ま、いくらいいってったってずっとじゃ飽きる。「やっぱり口語文は漱石だよな」なんて言って漱石の文庫本を取り出す。そのうち志賀直哉もいいな、という気持ちになって「小僧の神様」なんかをとろとろと読み出す。しっかし、この志賀ってのは嫌味なおやじだよな、とつぶやくようになってくると、だいぶ酔いは回っている。
そうなると、もう太宰である。「桜桃」、「トカトントン」、「如是我聞」までいくと歯止めは利かない。しまいには安吾の「堕落論」を片手に「生きよ、堕ちよ、ばかやろめ」と口走りながら寝てしまうのである。 
「酒飲みは奴豆腐にさも似たりはじめ四角で後はぐずぐず」 お後がよろしいようで・・・。