戦後の文楽を語る上で、安藤鶴夫の存在を無視するわけにはいかないだろう。
安藤は明治41年、義太夫語りの竹本都太夫の子として生まれた。文楽の16歳下である。
法政大学在学時代から文学を志していたが、30歳の時、都新聞で文楽評や落語評を始め、翌年には都新聞に入社した。(昭和17年に都新聞は国民新聞と合併し東京新聞となる。)
昭和21年、久保田万太郎の推挙で、雑誌「苦楽」に桂文楽の落語を中心とした聞き書き「落語鑑賞」を連載。評判を取る。
落語は元来気取りのない演芸で、寄席は悪所ともされた。評論に値する存在ではなかった。それを大真面目に論じることは、ある意味衝撃であったろう。(私にとってはマンガ評論を始めた頃の橋本治がそうだった。)
安藤と文楽との交流は、戦前にさかのぼる。文楽が「富久」を落語研究会で初演すると予告するのだが、その時になると文楽は決まって休演する、ということが二、三度続いた。それを安藤は都新聞に「今日も文楽は“富休”であった」と書いたという。安藤が都新聞に落語評を書き始めたのが昭和13年、文楽が「富久」を三代目圓馬に稽古してもらったのが、昭和10年であった。
戦後、「落語鑑賞」で落語評論家として独り立ちした安藤は、積極的に文楽を取り上げる。「カンドウスルオ」と異名を取った程の安藤は、自らの評論の中で文楽を激賞した。「名人文楽」という呼称は、安藤が言い始めたものらしい。
その後、安藤は芸術祭を初めとした各賞の審査委員となり、演芸界において発言力を増していく。彼に惚れられた文楽も、昭和落語の最高峰へと評価を上げていった。
ただ、安藤という人は好き嫌いが激しい人であった。好きな芸人は手放しに褒めちぎり、嫌いな芸人は徹底的に黙殺した。
安藤は東横落語会の出演者を、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、桂三木助、柳家小さんという5人のレギュラー制とした。文楽が「なぜ金馬を入れないんですか?」と疑問を呈したところ、安藤は「文楽さんともあろう人が、金馬のような乞食芸を買ってはいけない!」と語気を荒げたという。
また、安藤は、三木助も贔屓にした。三木助自身も好き嫌いの激しい人で、仲間内の評判はあまりよくなかった。安藤に気に入られたことで、三木助は「名人」となった。
三木助が死んだ時、安藤主催の「三木助を偲ぶ会」が催された。その同じ日、アンチ安藤・三木助派が「偲ばず会」というのを不忍池近くの料理屋で開いた。狭い世界だ。両方から招待が来た人もいた。どちらに出ても角が立つ。そんな人は、両方を欠席したという。だが、その中、敢然と二つの会を掛け持ちした人がいる。我らが桂文楽である。(実は、私はこのエピソードが大好きだ。)
文楽は、正岡容と安藤鶴夫を評して、弟子にこう言ったという。「正岡は落語家もやったこともあり、落語のことをよく分かっている。それに比べてアンツルはなあ…。」
文楽は安藤を敵に回すことはしなかった。いや、むしろ「先生」として立てていた。自分を褒めてくれることに感謝もしていただろう。ただ、心理的には幾分の距離があったように思われるのである。