昭和30年代、落語は黄金時代を迎える。その主な舞台となったのはホール落語だった。ホール落語を定義すれば、椅子席の大きな劇場(ホール)を用い、厳選された落語家の落語(主に古典)を鑑賞する、といったものになろうか。ホール落語は、寄席のほの暗い「悪所」というイメージを一新し、落語を鑑賞に耐える芸術にステップアップさせた。
さらに、このホール落語のブランドイメージを一挙に高めたのが、昭和31年にスタートした「東横落語会」だった。八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・三代目桂三木助・五代目柳家小さんの5人をレギュラーメンバーに固定。この5人が最も良質な古典落語を演じる者だということを強烈に印象づけた。(もちろん、それはプロデューサーの湯浅喜久治及びその師安藤鶴夫の価値観に他ならなかったが。)
人気者六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬は、この舞台では冷遇された。それは、第一次落語研究会における初代三遊亭圓遊の如きものだったのかもしれない。
そんな中、文楽と志ん生を双璧として、圓生がめきめき伸びてくるという図式が顕著になってくる。
文楽は若手真打ちの「睦四天王」の時からずっと売れっ子だったが、志ん生と圓生は長い低迷期を過ごしていた。志ん生は生来のずぼらから干され、圓生は気障なばかりで下手だと酷評されていた。二人は戦争末期満州に渡り、生死をかけた過酷な経験をする。その経験が芸に膨らみを持たせた。帰国後、志ん生人気が爆発、一挙に文楽と肩を並べる。(それ以前から、二人を東京落語界の最高峰と評価していた正岡容のような人はいた。)圓生は猛追してくる小さんを振り切るように自らの芸を伸ばしていく。オールドファンは以前の下手だった圓生のイメージに引きずられる感があったが、若い層は彼を熱狂をもって迎えた。
それに加えて、東大、早稲田といった一流大学で落語研究会が相次いで創立、落語はよりアカデミックなものになる。早稲田の教授、輝峻康隆と興津要は、桂文楽に昭和落語の最高峰という高い評価を下した。それは多分、文楽の一言一句を磨き抜く厳しさと文学性が大学のアカデミズムに合っていたのだろう。純文学の芥川賞を大衆文学の直木賞より重きを置く感覚に似ているのかもしれない。芸術祭を受賞したのは、文楽・志ん生・圓生の順だったが、それがそのまま大衆の人気を反映したものではなかった。後に圓生自身、「人気投票をすると、志ん生・圓生・文楽の順でした。」と言っている。それは現在においても同じかもしれない。
昭和20年代から30年代にかけて、文楽は昭和の名人としての評価を高めていった。そして、その過程の中で持ちネタを絞り込んでいった。もともとネタ数の少ない人だったが、自分で満足できるものしか演らなくなっていく。小心で臆病な文楽にとって、名人の称号は、いいものしか演じられないといったプレッシャーを与えるものだったのかもしれない。
志ん生の、セコな噺でも平気で高座にかけるような図太さは文楽にはなかった。確かに文楽の持ちネタは全てが十八番だったが、逆に言えば十八番しか演れなかったということだろう。エリートのひ弱さがそこに見えるような気がしないでもない。
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