文楽には、お笑い芸人として致命的な欠点がある。
ひとつはアドリブが利かないこと、もうひとつはすぐにテンションがあがってしまい、長い噺が出来ないことだ。
文楽の芸は、この欠点を出発点にしていると私は思う。
アドリブが利かないから台詞を固める。稽古を重ね、台詞を肉体化する。
長い噺が出来ないから、噺のサイズを自分に合わせる。そのために無駄を省き、言葉を磨く。
そうして、精緻な工芸品のような噺が出来上がった。噺はほとんどが20分程度に刈り込まれ、それは(意図的であったかどうかは分からないが)、寄席の持ち時間にぴったりだった。つまり、文楽は寄席の高座で最高の芸を披露することが出来たのだ。(三遊亭圓生はその実力を発揮するのに、寄席の持ち時間では足りなかった。だから、彼の場合、真価を発揮するためには、独演会やホール落語といった舞台が必要だった。)
文楽を完璧主義と評する人は多い。寸分変わらぬ台詞、時間、精密機械の如しであった。
普通、そうなると芸はいわゆる「箱に入った」ものになる。形式に凝り固まり生命感を失う。
ところが、文楽の噺はそうはならなかった。確かに台詞も時間もいつも変わらない。しかし、その空間は躍動していた。多分、それには彼の高いテンションが影響していたと思う。まるで登場人物が憑依したかのような熱演は、たとえ同じ噺でも、演じる度ごとに新鮮な感動をもたらした。同じ器だからこそ、中身のその時その時の違いが際立った。(柳家小三治は「文楽師匠ほど演る度に違う人はいないんじゃないでしょうか」と言っている。)
しかも、その高いテンションは、噺の中で見事な高低差となって表れた。文楽の噺はいずれも20分程度、その狭い敷地の中でその高低差は最大限の効果を生む。
以前、国立演芸場で入船亭扇橋の「心眼」を聴いたことがある。扇橋の「心眼」は滋味溢れるもので、それはそれで結構だったが、幾分単調で寝ている客が何人もいた。
帰宅して文楽の「心眼」をCDで聴いてみて驚いた。「心眼」がこれほどドラマチックでスリリングなものだとは。まさに怒濤のような18分41秒であった。
例えば、家は土地の形状、気候、文化などによってその形が決まる。芸も同じだ。本人の資質がベースとなってその人の芸が構築される。文楽の芸は、彼の資質の上に、粋を極めて(欠点と思われるものまで活かしきって)、建築されたものなのだ。その意味で、文楽の噺は彼以外の何者にもできない、文楽オリジナルとなり得たのである。
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