昭和36年は文楽と志ん生にとって、ひとつの転換点とも言える年となった。
志ん生の場合は劇的だった。この年の12月15日、彼は読売巨人軍の優勝祝賀会の余興に呼ばれ、高座で脳内出血を起こして倒れた。
川上監督が交通渋滞のため遅刻、開宴が大幅に遅れた。立食形式のパーティーで、腹を空かせた選手は料理に殺到し、高座など見向きもしない。かあっと頭に血が上ったのがいけなかった。志ん生は前のめりに倒れ、そのまま病院に搬送された。
一時は重体となったが、志ん生は強靱な生命力で持ち直し、約1年かけて高座に復帰する。
右半身に麻痺は残ったものの、幸いなことに言語障害は起こさなかった。ただ、以前より呂律が回らなくなり、迫力が減じた。その代わり生じた間が、ファンにとっては何とも言えない味となった。とはいえ、全盛期の芸とは比較にはならない。長男の金原亭馬生は、「噺家として言えば、倒れた後の親父は親父じゃない」とまで言った。
文楽は11月に紫綬褒章を受章。落語家として初の受章であり、落語界こぞって喜びにわいた。芸術祭賞でも勲章でも、落語家初、文楽はまさに落語界の第一人者として自他共に認める存在となった。
このように、文楽と志ん生にとっての昭和36年は、大きく明暗を分けたかに見えた。
だが、小さな変化が文楽に起きている。この年、文楽は入れ歯を入れる。このため滑舌が悪くなった。
色川武宏は『名人文楽』の中でこう書いている。
「文楽が入れ歯を入れる以前の芸を、今の若い人に観せたかった。昭和36年以前の芸である。この前七、八年の桂文楽が最上の、すなわち最高の桂文楽であり、入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、真生の文楽とは認めがたい。」
また、春風亭小朝の『苦悩する落語』の中には次のような話が出てくる。小朝が落語家の声の分析を、日本音響研究所に依頼した。そこの主任研究員が驚愕したのが文楽の声だった。話速の変化では、最初1分間に100音節、中程は50音節、後半は100音節といったように緩急を巧みに操る。そして、人間の耳に聞こえる最も感度のいい2000ヘルツ~4000ヘルツに声を集める。さらに、音声基本周波数の移動幅は120ヘルツ~320ヘルツ、音声の高低をかなり使ってメリハリを利かせる。まさに「1/fの揺らぎ」の持ち主だったという。ただ、欠点が二つあった。各音韻の区切りが曖昧なところとサ行の子音の発音。もし、これが入れ歯による影響だったとしたら、それ以前の文楽の芸は、音声上で言えば完璧だったということになる。
絶頂を迎えた文楽に、静かに老いが忍び寄っていた。
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