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2011年10月30日日曜日

土浦の散歩


土浦を歩くのも好きだ。
前にも書いたが、いつも町かど蔵の駐車場に車を止めてほっつき歩く。
やはり中城通りが中心になるな。吾妻庵や矢口酒店など好きな建物が多い。
それから足を伸ばすとなると、いくつかポイントがある。
モール505から駅前の方へ行ってもいいし、桜町界隈を歩くのもいい。亀城公園も近くていいな。
だいたい隙間の時間をねらって歩くので、時間はせいぜい1時間。気分によってコースを選ぶ。
余裕があれば、亀城公園近くの古本屋で本を買って、喫茶店「蔵」でコーヒーを飲んで帰る。
写真は中城通り入り口の「ほたて食堂」。古い天ぷら屋さんだ。気取りのない天丼が旨い。好きな建物で、散歩の時は、必ずと言っていいほどカメラを向けてしまうのだ。

2011年10月28日金曜日

石岡「四季」


カメラをぶら下げて散歩するのが好きだ。
特に古い町並みを見て歩くのがいい。
この辺りなら、石岡とか土浦。東京に出るなら、上野、浅草、谷中といった所がお気に入り。
歩き疲れたら、ふらりと入った本屋で古い小説の文庫本を買い、喫茶店でコーヒーを飲みながら読む。昼時なら、蕎麦屋もいいなあ。
写真は石岡の喫茶店「四季」。しぶい店構えだよね。確か市の文化財に指定されたんじゃないかな。
ここでドライカレー食いながら、おばちゃんと常連さんの会話を聞くともなく聞いていたのだが、「この辺、夜は人通りがなくなっちゃって、怖くて早めに店閉めちゃうのよ。」なんて言ってたなあ。

2011年10月25日火曜日

「楼外楼」のランチ


もう大分前のことになったが、妻を病院に送っていった帰り、つくばの楼外楼で昼飯を食べた。
バイキングランチ。980円だったかなあ。ハーフサイズの一品料理に、チャーハン、唐揚げ、サラダ、春巻き、シューマイ、オードブルなんかが食い放題。お得だよねえ。私はこの時、一品料理は五目焼きそばを選びました。旨かったよ。
ただねえ、一人でバイキングってのも寂しかった。今度は、皆でわいわい言いながら食べましょうや。
ちなみに楼外楼はジャスミンティーがポットで出てくる。これが旨いの。嬉しいサービスですな。

2011年10月23日日曜日

OB会に行ってきた


週末は、落研のOB会があったので、新宿へ行った。
例によって、早めに行き、ぶらぶらする。
新宿は本当に久し振り。なかなか山手線のこっち側には来ないもんなあ。
まずは歌舞伎町。この辺に「庄助」があったなあ、とか、この辺に「五十番」があったなあとか思いながら歩く。もちろん今はない。「庄助」は味噌ダレをつけた焼き鳥が旨かった。「五十番」はキムチが食い放題だった。昔は本当によく行ったのに、あっけなくなくなっちゃうんだなあ。
かつての歌舞伎町の象徴、コマ劇場が取り壊しの真っ最中。噴水もなくなってた。随分時が経ったのね。
しばらくほっつき回って、3丁目方面へ。末廣亭の前まで行く。昼席の主任を観るまでの時間はない。写真を撮るだけにする。寄席見物も、上野が中心になった。せいぜい池袋まで。新宿まで来ると帰りが心配なので、10年以上も末廣亭には入っていない。いつか泊まりで来たいものだ。
御苑の辺りまで行って、また戻る。三越裏のローレルという喫茶店で休憩。コーヒーを飲みながら、漱石の『門』を読む。
三越のジュンク堂で時間を潰して、いよいよOB会へ。
今回は盛況で、参加者が30人ほど。創設者を始め、ほとんどが10歳以上も年上の大先輩方である。ただ同輩の世之助がいるので心強い。2つ上の梅之助さん圓漫さんも来てくださった。
うちの落研出身の落語家、桂小文治師匠、立川談修さんも交えての大宴会。初代風柳さんの名幹事で、楽しい時を過ごせました。いやあ、50なんて洟垂れ小僧です。
でも、先輩方の、「人形町末廣が潰れるというので観に行ったよ。その時は文楽が出てた。主任は圓生で『文七元結』を聴いたよ。」なんて話を伺って、痺れました。
濃密な時間だったなあ。落研やってよかった。初代さん、世之助君、色々お気遣いいただき、ありがとうございました。また参加させていただきます。

2011年10月19日水曜日

前座の噺

うちの落研は、前座・二つ目・真打ちの階級制度が、はっきりと確立されていた。
前座の時は、噺を先輩から口移しで教えてもらう。
落研によっては、最初から録音で好きな噺を覚えていいというところもあったが、うちはその点では極めて保守的であった。
最初は『一分線香即席噺』。
私たちの代は、二代目紫雀さんから教わった。「雷は怖いね。」「なる(鳴る)ほど。」、「隣の空き地に囲いができたってね。」「へー」という一分線香即席噺に花見の小咄をくっつけたやつ。これを稽古して春合宿で発表する。「雷」と「へー」の間に、オリジナルを入れて演る。合宿の時は部屋の先輩が考えてくれる。
こういう場合、大体、シリーズものになるね。公園シリーズで、「井の頭公園でデートしない?」「いーのかしら。」とか、ブルース・リーシリーズで、「ブルース・リーさん包丁取ってください。」「ほちょーっ」とか、薬シリーズで、「薬屋の親父が子どもに小便させているよ。」「はいちおーるしー。」とかあったねえ。私の場合は、当時のアイドルが歌った楽曲シリーズだった。「この五十嵐ゆきのレコードどうする?」「わーる、割る。」(元ネタは『悪』です。)とか、「君、中華街で包茎手術したんだって?」「チャイナタウンで皮剥いて(振り向いて)。」(下ネタかっ)なんてのをやらされた。
この噺で、校内寄席の初高座を踏む。私は初高座で、この噺を演った時、客の反応を気にして三平さんみたいな感じになってしまって、四代目金瓶梅さんから「真面目にやれ。」と叱られた。
2番目は与太郎の小咄と泥棒の小咄をつなげたもの。これも紫雀さんに教わった。
次はいよいよ1本の噺をやる。『寿解無』。これは四代目一生楽さんに教わった。この噺は夏合宿で発表する。
夏合宿で2本目の噺を教わる。ここから2グループに分かれた。うちの代は『道灌』と『手紙無筆』だった。私のグループは、雀窓さんに『道灌』を教わった。私は『道灌』という噺が好きだったので、この噺ができるのが嬉しかった。やっていいよという許可が出てからは、盛んに『道灌』をやって、「道灌小僧」と呼ばれた。八代目桂文楽が前座時代、「道灌小僧」と呼ばれていたということもあり、そう言われるのは、ちょっとばかり誇らしかった。
その後、冬合宿の発表用に、これも2グループに分かれ、『藪医者』と『つる』を教わった。私は『藪医者』の方。七代目風来坊さんが教えてくれた。風来坊さんの権助は、それは素晴らしかった。得意ネタにはならなかったが、考えてみれば、この噺で田舎言葉の稽古ができたのは、私にとって非常にプラスになったと思う。
この、『道灌』、『藪医者』というネタの流れは、幅があっていい。多分偶然だったのであろうけれど、今思うとラッキーだったな。

2011年10月17日月曜日

つまらない大人にはなりたくない


「つまらない大人にはなりたくない」とその昔、佐野元春は歌った。
今、私のやっていることや言っていることを思うと、まさに「つまらない大人」になってしまったなあという感慨を抱く。
でもさ、責任とか守るものとかあるから「つまらない大人」になってしまうんだよ。つまらなくない大人なんて、所詮、子どもなんじゃないか。そんなことを呟いて、自分自身を正当化していた。
ところが、雑誌『SIGHT』の小出裕章(京都大学原子炉実験所助教)の記事を読んで、そういう自分がちっぽけに見えたよ。
一部を引用してみる。
「私にできることなんて、ほんと些細なことしかない。歴史の中で、個人のはたせる役割なんて、どんなことやったって、ちっちゃいもんです。私はずーっと原子力をやめさせたいと思ってきたけれども、もちろん私の力なんか全然役にも立たないまま、原子力はどんどん拡大してきてしまっている。でも私という人間は、1回しか生きられない。人生は戻ることもできないし、飛び越えることもできないし、今この場で私という命というものを、1回1回生きていくしかないわけです。どうせできることが、たかが知れているといったって、この人生しか生きられないんだとしたら、自分のやりたいことをやる、ということしかないわけで。ですから、私の周りは敵だらけでしたけど、別になんの迷いもありません。勝てるとも思わないけれども、やらなければならないことは、私にとってはもう、自明のことなんだから。」
もうひとつ。
「要するに個人の力なんて、たかが知れているわけで、私自身は負けることは別になんでもありません…『なんでもありません』って言ったらおかしいけど。もちろん、負けたいと思って負けているわけではありませんが、私の敵は国家なわけです。国家と、その周りに巨大な力がみんな集まっているわけですから、私が勝てるなんてことはあり得ないわけです。負けるのが当然という戦い方をしてきたわけです。」
肝の据わった言葉だ。きちんと大人だし、しかもかっこいい。
自分が、「つまらない大人」であることに自覚的でありたい。そして、それに甘んじたくないと思う。

写真は、沖縄の少年。去年、出張で行った時に撮った。頭にグラブをひょいと載せている姿が粋だねえ。

2011年10月11日火曜日

夢之酒 秋の巻

ここんとこ仕事が立て込んで、ちょっとばかり忙しい。
こういう時は現実逃避、夢之酒シリーズといこう。

渓流沿いの温泉宿。暮れゆく紅葉を眺めながら風呂に入り、さっぱりしたところで、夕食の膳に向かう。
山女の塩焼き、きのこの天ぷら、新蕎麦、牛肉の陶版焼き等が並ぶ。
まずはきりっと冷えたビール。すぐに燗酒に切り替える。
ふと見ると、松茸の土瓶蒸しがあるではないの。実は私、汁物で酒を飲むのが好きなのだ。
汁を口に含むと馥郁たる香りが鼻腔に立ち上る。いいねえ。
私は飲みに行っても、あまり土瓶蒸しは頼まない。っていうか、土瓶蒸しを出すような店には、まず行かない。やはりあれは「高嶺の花」なんだよなあ。
松茸の土瓶蒸しで思い出すのは、高山の夜だ。
岐阜のT君が結婚した時、式の後、高山の街に出て、大学時代の友人3夫婦で飲んだ。その店で、土瓶蒸しが意外と安かった。「思い切って頼もうぜ」と私が言うと、I君が「いっちゃうか?」と応じた。旨かったと思うのだが、その後けっこうべろべろになってしまい、記憶が定かではない。やはり、ああいうものはしっとりと落ち着いて味わった方がいいんだな。
まあいい。ここは渓流沿いの温泉宿だ。じっくり楽しもう。
せせらぎの音が耳に届く。浴衣の妻(にしておいた方が間違いはあるまい)が、熱燗徳利の首つまんで、もう一杯いかがなんて、妙に色っぽかったりするんだよねえ。

2011年10月7日金曜日

休みの日


この間、平日の休みがあった。
妻とデートの予定だったが、次男の風邪が長引いて学校を休んだので、残念ながら中止、家にいることにした。
昼は唐揚げ丼を作る。鶏の唐揚げを玉葱と煮て卵でとじる。カツ丼の唐揚げ版ですな。けっこう旨いよ。
物置から持ってきた、村上春樹の昔の短編集『パン屋再襲撃』を読む。読了。次男ともたっぷり遊ぶ。
夜、先輩から近所の中華料理屋に呼び出され、飲む。ここは刺身が旨い、ちょっと変わった中華料理屋なのだ。鰹の刺身、肉野菜炒めで、ビール、酒。旨し。
その後、地元のスナックに河岸を変え、ビールを飲みながらカラオケ。ほんと田舎のオヤジの飲み会でした。

写真は土浦のスナックの看板。原画は、つげ義春、か?

2011年10月2日日曜日

寒い日だった


一日中曇り。肌寒い。
次男が熱っぽいので、医者に連れて行く。風邪の引き始めとのこと。
お出掛けのつもりだったが、中止。家でおとなしくしていることにする。
昼は味噌ラーメンを作る。市販の生麺タイプの味噌ラーメンに、もやしと挽肉を炒めて載せただけ。にんにくを隠し味に入れるといい。私は七味をふりかける。これがけっこう旨いのだ。子どもたちもいっぱい食べてくれた。嬉しいなあ。残ったスープに飯を入れて食べる。これもまた旨し。
子どもたちとWiiのスーパーマリオをちょっとだけ。途中私だけ抜け出して土浦へ行く。
毎年、落研の先輩鳥取のTさんから二十世紀梨を頂く。茨城は豊水を中心とした赤梨が一般的なので、青梨である二十世紀の爽やかな酸味は新鮮に感じる。今年もまた美味しく頂いた。
お返しは、いつも小松屋の佃煮にしている。土浦の駅前通に店を構える老舗。味に品がある。詰め合わせを鳥取へ送り、ついでに自宅用にゴロの佃煮を買う。これがまたご飯によく合うの。
帰りに、いつも気になっていた看板を写真に撮る。こういうのは家族連れで撮るもんじゃないからね。
凄いでしょ、「スナック、ブス」。

2011年10月1日土曜日

麻雀の日々

落研の部室でうだうだしていた連中が、どこか行くかという話になると、寄席か飲みか麻雀かだった。
というわけで、今回は麻雀の話。
落研では雀荘といえば「みどり」と決まっていた。(1年生は先輩の煙草に火を点けるためにマッチを常備しているのだが、皆この「みどり」のマッチを持っていた。「みどり」のマッチは擦るところに煉瓦のような模様がついていて、その分火が点きにくいのが難点だったがね。)
料金は1時間100円。カルーセル麻紀にちょっと似た、美人のおばちゃんがやっていた。とても気さくな人で、落研の部員を可愛がってくれた。私は、二抜けで暇なときは、よく椅子に座って居眠りをしていたのだが、おばちゃんに「ここは宿屋じゃないよっ。」と小言を言われたものだ。
落研のルールは、クイタンもアトヅケもありの、所謂アリアリというやつ。すぐ上がるので、テンポが速い。
同期では八海が強かったな。私は彼に「九連宝塔」という役萬を2回も振り込んだ。役萬を上がると、店からコーラかファンタが出る。そして、名前が張り出されるという名誉が与えられるのだ。私は1年の麻雀を打ち始めの頃に、「中のみ」をつもったつもりが「四暗刻」をつもっちゃった。後ろで見ていてくれていた海太郎さんが、やたら盛り上がっていたなあ。
腹が減ると、カップ麺を頼んで食べた。お気に入りは、とんこつ味の「うまかめん」だった。懐が暖かいときは、出前をとった。ここの出入りの中華料理屋の卵チャーハンは旨かった。
「みどり」で食べないときは、帰りに向丘遊園駅北口の目の前にある小さな店で晩飯を食べた。ここはカウンターだけでおじさん一人でやっていた。メニューは牛丼とかき揚げ丼、カレーもあったかな。私はだいたいここでは牛丼を食べていた。たいして旨くはなかったけど、侘びしくて悪くない雰囲気だった。卒業後しばらくして行ったら不動産屋になっていた。何だか寂しかったよ。
それにしても、ほんとによく打ってたな。休日の昼前に集まって10時間ぐらい打ったこともあった。何てもったいない時間の使い方をしていたんだろう。馬鹿だとは思うが、後悔はしていない。そんなことができたのも、あの頃だからだったんだ。
「みどり」のおばちゃん、今も元気かなあ。