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2011年12月31日土曜日
2011年12月29日木曜日
本厚木のシロコロホルモン
本厚木のシロコロホルモン。
私はその存在を知らなかったが、岐阜T君がどうしてもというので。
以前二人で行っていた旅行も、大体T君が調べ、私が乗っかるという図式だった。
何でもB1グランプリで優勝したんだそうな。
白もつを筒切りにし、味噌ダレで漬ける。冷凍モノであってはいけないとのこと。これもT君調べによる情報である。
午後4時、入店。まだ外が明るいうちに飲み始めるってのはいいもんだ。
七輪に炭火。旨いねえ。すんごい柔らかい。ビールによく合う。
シロコロは1グループ1皿限定。冷凍モノではないからね。品数が限られるんだろう。
タン塩、カルビ、白もつ、ハラミとわしわしいく。お値段も手頃でした。満足満足。
その後、駅近くのチェーン居酒屋で2次会。芸術的に薄く切ったしめ鯖で酒を飲む。
2011年12月25日日曜日
メリークリスマス
イブは家族で作ったピザとカスミで買ってきたフライドチキンでロゼワイン。デザートに、やはり家族で作ったケーキ。旨し。
今日は、妻子を連れてイーアスつくばに行き、次男の誕生日プレゼントを買う。
いい天気。筑波山がきれいだ。
夕方、子どもたちが、プレゼントのゲームをやっている間、霞ヶ浦へ写真を撮りに行く。割と有名なポイント。私を入れて3人が写真を撮っていた。
日没後、けっこう暗くなるまで、夕闇に浮かぶ霞ヶ浦越しの筑波山を撮る。もはやシャッターを切らなくてもいいな。暫しその美しさに見とれた。寒かったけどね。
帰って、夕食はすき焼き。肉は豚肉を使う。私の小さい頃は、牛肉を食べる習慣はなかった。だから、私の家ではすき焼きは豚肉なのだ。妻も牛肉より臭味がなくていいと言う。(豚すき焼きは、嫁に来て初めて食べたらしい。)また旨し。
特にイベントらしいものはなかったけど、親子4人仲良く過ごせた、いいクリスマスでした。
2011年12月21日水曜日
写真が好き
実は写真が好きだ。
好きな写真家は、荒木経惟と木村伊兵衛。巨匠なのに軽いとこがいい。
昔、愛読していたマンガがあった。これは売れっ子の小説家でありエッセイストの主人公が、食や車に関する蘊蓄を語り、世相を斬るといった内容だ。
その中に、荒木経惟を戯画化したような写真家を登場させた回があった。その写真家は主人公氏の泊まっていた温泉宿で乱痴気騒ぎをして、主人公氏に一喝されるのだが、その時、彼は写真と絵画とを比較した芸術論をぶつのだね。主人公氏はこんなことを言った。「写真は誰にでも撮れるが、絵はその人だけのものだ。絵の方は芸術だが、写真は芸術とは言えない。」とね。
私はこれを読んで、さすがに底が浅いなと思った。
写真はそりゃ誰にでも撮れる。でもプロの撮った写真は誰にでも撮れるものではない。山岳写真家や動物写真家、戦場カメラマンのような写真を素人が撮れるか。その場に行く、その瞬間を捉えるといったところまでがプロの仕事なのだ。それは文字通り命がけの作業なのだ。そこまで日常と隔絶していなくても、何気ない風景やスナップでも、その切り取り方が違う。荒木や木村の町撮りを見ると、我々が見過ごしてしまう日常を、時に鋭く、時に優しくすくい上げている。彼らの眼は凄いな。モノを観るプロフェッショナルでなければ、写真家になることはできない。
あのマンガの主人公氏、つまり作者は、そこを分かっていない。要は底が浅いのである。写真というジャンルをひとくくりにし、それに全てをかけている人に対するリスペクトがない。そのマンガは、その後、「世相を斬る」というところが暴走し、およそ作品とはいえないものになってしまった。
写真は浅草の観音様の本堂の天井に描かれた仏画。荒木経惟がかつて撮ったものだ。艶っぽいね。荒木が撮ってくれなかったら、きっとその存在に気づかなかったよ。
2011年12月19日月曜日
K君を悼む
大学時代、同じクラスで同じゼミだったK君が亡くなったと、やはり同じクラスで同じゼミだった岐阜のT君が報せてくれた。亡くなったのは今年4月。喪中のための賀状欠礼葉書で知ったという。是非とも彼の家に弔問に伺いたいとのことだった。
色々調整した結果、岐阜のT君、クラスメイトの静岡のT君、私の3人で、神奈川県H市のK君の家を訪問することにした。
K君の家の最寄り駅まで電車で行き、車で来た両T君と合流、K君宅へ。K君の仏前にお線香を上げ、遺影を拝見する。学生時代よりは大分太っていたが、あの頃と同じような穏やかな笑みを浮かべている。
ご両親にお話を伺った。鬱病になって10年、2年間休職し退職したのが8年前。その後統合失調症と診断される。大量の薬を服用し、その副作用で身体に症状が出ると、それを抑えるためにさらに薬が処方されたという。さんざんに薬漬けにされ、臓器不全に陥っての最期だった。
聞いていて堪らなくなったな。
K君は大学では司書の資格を取っていた。本が好きで本に囲まれて生きたかったんだろう。しかし、K君は役所の窓口業務の仕事に就く。いささか浮世離れした大学の文学部という所と違って、実社会はきつい。部下を抱え、様々な人に対応しなければならないような状況が、K君にはしんどかったんだろう。彼はいい加減に手を抜くなんて事はできない人だったからなあ。
あの頃、K君はいつも静かに笑っていた。私たちの馬鹿話から少し離れた所で。でも、その笑顔はとても優しかったんだ。
就職後も、静岡T君はK君をテニスに誘ったりしてお互い行き来していたらしい。文学部仲間のM君はK君の薬の量に驚き、飲んでいいものと飲まなくていいものとに分類してあげていたという。
ご母堂の剥いてくださった柿を食べながら、そんなことを話し合った。
お墓が近いというのでお参りさせて頂く。ご両親と一緒にお墓に行く途中、家並みの隙間から、けっこう大きく富士山が見えた。真新しい墓石に向かって手を合わせる。我々の訪問を、ご両親が喜んでくださったのが、唯一の救いだった。
K君宅を辞し、岐阜T君が宿を取っている本厚木へ向かう。本厚木でシロコロホルモンをつつきながら昔話をし、K君を偲ぼうというのだ。
途中、車から富士を見た。K君の戒名に孤岳院とあったのが、その富士と重なる。これから富士を見たら、K君を思い出すことにするよ。大変だったな。安らかに眠ってくれ。K君のご冥福を祈る。
2011年12月15日木曜日
落研の係
落研では、入部すると係に振り分けられる。渉外、会計、広報、写真、OB図書の5つだ。これは別に希望を取るわけではなく、先輩が個々の適正を見て決めるのである。係は途中で変わることはない。
渉外は、対外交渉一般を担当する。発表会の会場や合宿の場所の選定及び予約、慰問の場所決め、発表会のビラ配りの許可申請など、実際の活動の根幹をなす仕事だ。この係をやった者は幹部になることが多い。実際うちの代では、八海君、悟空君がやって二人とも副代表になった。大福さんもこの係で次の代の代表だったな。
会計は、部の財布を一手に握る。堅実な人がここに当たる。うちの代は酒合丈君。彼は代表を務めた。
広報は所謂「寄席文字書き」だ。めくりやら看板やらをひたすらしこしこと書く。これは私がやった。うちの落研は寄席文字のレベルが高かった。2こ先輩の雀窓さん、1こ上の風神さんなんぞプロ級だったな。1つ下の、のん平君もそれに匹敵するくらい上手かった。その間に挟まれて、まあ私は至って凡庸でした。
写真は、イベントで写真を撮り、部員に販売する。発表会に出演者への写真皿や卒業記念のパネルなんてのも作ってた。これは夕姫さん、弥っ太君のゴールデンコンビ。シャッターを押す時の「はいチーズ」には癒されましたなあ。
OB図書はOB名簿の作成及びOBへの案内通知等OB関係の仕事、それに部室にある本やレコード、発表会を録音したテープの管理といったことを担当する。これは楓さん、世之助君。当時はガリ版でOB名簿を印刷してた。大変だったよねえ。世之助君は今も、いわばOB係だな。
こう考えると、見事に適材適所だった。入部してけっこうすぐに決められたけど、先輩方はよく見ていたんだなあと改めて思います。
写真は私たちの代の「3年の会」のパンフレット。寄席文字は私が書きました。改めて見ると、上手くないね。
2011年12月13日火曜日
鯉は旨し
この前鹿嶋に泊まった時、宴会は神宮の参道にある料理屋でやった。
その際、鯉のうま煮が出たのだが、若い人の中には初めて鯉を食べるという人もいて、ちょっと驚いた。
霞ヶ浦を抱えるこの茨城にあって、鯉はけっこうなご馳走なのだ。鯉ってそれほどポピュラーな食べ物ではなかったのかね。
ともかく、鯉のうま煮が出た。鯉を筒切りにして甘辛く煮たやつだ。旨かったねえ。家庭で作るより洗練されてる。川魚特有の臭みがまるでなかった。真子(卵巣)がまた旨い。これが入ってないと、ちょっと寂しいんだよなあ。
ただ気をつけなきゃいけないのは、この魚、骨が多い。しかも、その骨が鋭く二股になっていて、喉にでも刺さった日にゃ堪ったもんじゃない。まあ、骨のあるところは決まっている。特に背中に小骨が多いので、そこさえ気をつければ大丈夫だ。
落語にもいくつか鯉料理が登場する。
まずは『青菜』の鯉の洗い。植木屋さんがご隠居さんに勧められて、柳影を飲みながら洗いを食べる場面が、この噺のハイライトである。鯉の身を薄く切って、水で締めて氷の上に載せる。これがこりこりと身が引き締まってもう絶品。こいつをうちの方では酢味噌でいただく。生姜醤油でもいいけどね。噺の中で植木屋さんはどっちで食べたんだろう。
それから、八代目桂文楽が『締め込み』や『やかん泥』の枕でやっていた泥棒の小咄。料理屋に強盗が入るやつだ。泥棒先生、仕事を済ませた後で、「腹が減ったから飯を食わせろ」と主に言いつけ、たらふく食うのが、鯉の洗いに鯉こくである。鯉こくというのは鯉を筒切りにして煮込んだ味噌汁。これはあまり食べたことない。昔、米沢で鯉こくの缶詰を買って食べたっきりだ。うちの母親は作ったことがなかったなあ。
『二十四孝』では、八五郎がおっ母さんに鯉を食わせようとする場面がある。おっ母さんは、にべもなく「川魚は泥臭くって嫌いだよ」と言うんだけど、実はうちの母も妻も鯉は苦手。父も二人の息子も私も大好物なのに。我が家では、はっきりと男女で好き嫌いが別れてる。鯉って男の味なのかねえ。
写真は鹿島神宮参道、宴会をやった店の近くにある蕎麦屋さん。こっちもなかなか渋い造りだねえ。
2011年12月10日土曜日
Iさんを囲む会
先日、「Iさんを囲む会」というのに行ってきた。
Iさんは長野県の生まれ。東京の大学で社会教育に関心を持たれ、合併前のうちの村役場に就職。長いこと社会教育主事を務めていた。その後、村の総合文化センターの設立に尽力され、定年までの5年間は文化センターの館長となられた。村史の編纂や村内の野仏に関する本をまとめるなど、多方面に活躍されている。
この度、50年振りに故郷長野県へお戻りになるという。そこで、この会が開かれることとなったわけである。
私は高校の頃、高校生会活動をしており、当時社会教育主事をされていたIさんに大変お世話になった。この会は、同じ高校生会仲間の盟友S君から誘って貰った。
質疑応答を入れて2時間45分。熱心にこの地区のことを語ってくださった。
戦後からの青年団活動等の社会教育活動の流れ。総合文化センター設立の経緯。センターや地区の活動の今後のあり方。役場の職員から紹介されたIさんのエピソード。どれもIさんの誠実な人柄がにじみ出ていた。集まった人たちのIさんに対する敬愛の情も感じられた。いい会だったな。
帰り際、ちょっとIさんと話ができた。Iさんの方から「久し振りだなあ」と声を掛けてくださった。ちゃんと話をするのは、30年振りぐらい。覚えていてくださったんだ。
Iさん長い間ありがとうございました。
S君、誘ってくれてありがとう。いい機会を貰えた。そうだよな、自分が生活している土地、直接関わることのできる人との繋がりを大切にしなきゃな。それを再認識できたよ。
写真はこの間蕎麦打ちをした古民家。これもIさんが関わった仕事の一つだ。
2011年12月6日火曜日
『鼠穴』について語ろう②
高校の時、ラジオで三遊亭圓生の『鼠穴』を聴いた。これはカセットテープに残してある。
50分に及ぶ大作だった。登場人物は田舎者だが、江戸情緒溢れる華麗なものだった。
枕では江戸名物から火事の話題を振る。竜吐水という江戸時代の消防ポンプを紹介、その水が出る様子を描写し、絶妙の間で「えいやあぁぁ、ぴゅっ、ぴゅって…、テヘッ、こんなんで、貴方(ああた)火が消(け)えるわけがない。」と言って爆笑を誘う。
話の途中でも「夢は五臓の疲れ」を仕込むのに自分の見た夢の話を挿入。マリリン・モンローと同衾し、「さあと思って抱きすくめようとするが手が回らない。よく見ると、これが高見山だったという…。」これもやたら可笑しかった。圓生の噺には、こうした茶目っ気が、よく顔を出す。
談志の『鼠穴』はもっと引き締まった構成だ。金を巡る兄弟の葛藤に、より焦点が絞られている。
兄は徹底したリアリストである。最初に三文しか貸さないのも、弟の状況を冷静に判断した末のものだ。夢の中とはいえ、三度目の対面では、「落ち目のお前にとても50両は出せない」と突っぱねる。弟へ金を貸すのも投資なのである。夢とはいえ、実際にそんなことを言い出しかねない雰囲気が、この兄にはある。一方、弟はロマンチストだな。肉親の愛を信じずにいられない。
このリアリストとロマンチストの相克が、あの夢の中の対決だ。この場面の談志の迫力は凄い。聴く者を圧倒する。感情が奔流のようにほとばしる。金を巡って兄弟の業と業がぶつかり合う。
そして、リアリストもロマンチストもどちらも談志なのだと思う。彼の金銭感覚にはそんな両極端な所があるような気がする。そういえば、談志の得意な『芝浜』『黄金餅』『文七元結』なんかは、どれも金が絡む噺だな。
この文を書くのに、プレミアムベストCDを聴いてみた。平成5年10月の「にっかん飛切落語会」での録音である。ふと、後半の田舎言葉の訛りが薄くなっているのに気づく。談志の演出は乱暴に見えて実は緻密だ。文楽を満足させる程の演じ分けかどうかは私には分からない。ただ意識的な演出なのだとは思う。
サゲの後、将棋の感想戦のような案配で観客に話しかけている部分も収録されていた。
あの初めて観た池袋演芸場、談志はサゲの後、高座から客席に下りて暫し客と話し込んだ。そんなことをやる落語家を初めて見た。今なら、談志はそういうことやるんだよな、ということを知っているけど、当時はびっくりした。噺にも感動したけど、この場面にも私は感動した。あの『鼠穴』が私の大学での落語生活を方向付けたのだ。
上手くまとめることはできなかったが、思い出の噺についてあれこれと書いてみたかった。ご容赦願いたい。ちなみに私は『鼠穴』を持ちネタにすることはなかった。
50分に及ぶ大作だった。登場人物は田舎者だが、江戸情緒溢れる華麗なものだった。
枕では江戸名物から火事の話題を振る。竜吐水という江戸時代の消防ポンプを紹介、その水が出る様子を描写し、絶妙の間で「えいやあぁぁ、ぴゅっ、ぴゅって…、テヘッ、こんなんで、貴方(ああた)火が消(け)えるわけがない。」と言って爆笑を誘う。
話の途中でも「夢は五臓の疲れ」を仕込むのに自分の見た夢の話を挿入。マリリン・モンローと同衾し、「さあと思って抱きすくめようとするが手が回らない。よく見ると、これが高見山だったという…。」これもやたら可笑しかった。圓生の噺には、こうした茶目っ気が、よく顔を出す。
談志の『鼠穴』はもっと引き締まった構成だ。金を巡る兄弟の葛藤に、より焦点が絞られている。
兄は徹底したリアリストである。最初に三文しか貸さないのも、弟の状況を冷静に判断した末のものだ。夢の中とはいえ、三度目の対面では、「落ち目のお前にとても50両は出せない」と突っぱねる。弟へ金を貸すのも投資なのである。夢とはいえ、実際にそんなことを言い出しかねない雰囲気が、この兄にはある。一方、弟はロマンチストだな。肉親の愛を信じずにいられない。
このリアリストとロマンチストの相克が、あの夢の中の対決だ。この場面の談志の迫力は凄い。聴く者を圧倒する。感情が奔流のようにほとばしる。金を巡って兄弟の業と業がぶつかり合う。
そして、リアリストもロマンチストもどちらも談志なのだと思う。彼の金銭感覚にはそんな両極端な所があるような気がする。そういえば、談志の得意な『芝浜』『黄金餅』『文七元結』なんかは、どれも金が絡む噺だな。
この文を書くのに、プレミアムベストCDを聴いてみた。平成5年10月の「にっかん飛切落語会」での録音である。ふと、後半の田舎言葉の訛りが薄くなっているのに気づく。談志の演出は乱暴に見えて実は緻密だ。文楽を満足させる程の演じ分けかどうかは私には分からない。ただ意識的な演出なのだとは思う。
サゲの後、将棋の感想戦のような案配で観客に話しかけている部分も収録されていた。
あの初めて観た池袋演芸場、談志はサゲの後、高座から客席に下りて暫し客と話し込んだ。そんなことをやる落語家を初めて見た。今なら、談志はそういうことやるんだよな、ということを知っているけど、当時はびっくりした。噺にも感動したけど、この場面にも私は感動した。あの『鼠穴』が私の大学での落語生活を方向付けたのだ。
上手くまとめることはできなかったが、思い出の噺についてあれこれと書いてみたかった。ご容赦願いたい。ちなみに私は『鼠穴』を持ちネタにすることはなかった。
2011年12月3日土曜日
蕎麦打ちをやった
子ども会の行事で蕎麦打ちをやる。
会場は市で保存してある古民家。ここに大人も入れて30人ほどが集まる。
私自身、蕎麦打ちは15年振りぐらいかなあ。職場の旅行で北茨城へ行ったとき、「蕎麦打ち道場」でやったことがある。
今日は地元の蕎麦打ちクラブの方々に指導して頂く。
いやあ子どもが20人も集まると、まとめるのは難しい。あっちこっちで揉め事が起きる。その中をかいくぐっての蕎麦打ちだ。
クラブの方の丁寧なご指導で、どうやら蕎麦が出来上がる。
きしめんのような太い蕎麦もあったが、自分たちで作ったものは、やはり美味しい。
皆、あっという間に完食でした。
子ども会の役員をやっている妻は、あっちこっちを飛び回っておりました。何とか今年最後の行事も終わり、一安心といったところ。妻は疲れたと言って早々と寝てしまった。お疲れ様、よく頑張っていたよ。今夜はゆっくり休んでください。
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