かつての私にとって、「憧れの人」の一人が、中原中也であった。ああいった放蕩無頼の生活をしてみたかった。大学の一人暮らしは私を野放しにさせた。そこに歯止めなんてものは存在しなかった。
金はなかったので、中原中也的な生活とは、友人の家を泊まり歩いては、飲んだくれるというものになった。
泊まり歩くうちに、定宿というべき所ができた。もちろん、これは私の好みが全てで、相手の迷惑なんて、これっぽっちも考えていない。
1年の時は、狛江の小文治さんのアパートと春”短(バルタン)君のアパートに、実によく行った。(おかげで春”短君は落研を辞めてしまった。)
2年からは、経堂の歌ん朝さんのアパート、祖師ヶ谷大蔵の八海君のアパート、それから小文治さんの後に入った弥っ太君の所。弥っ太君は翌年、経堂に引っ越した。その経堂のアパートにも通った。
3年からは、弥っ太君の後を継いだ蘭丸君の所。
向ヶ丘遊園駅近くの三代目紫雀さんのアパートにも随分行ったなあ。
4年の時は、喜多見に住んでいた岐阜T君のアパートに足繁く通った。T君の所で酒を飲むことはなかった。ほうじ茶でカールをつまみながら話し込むのが常だった。T君は基本的に人を泊めなかったので、歩いて30分ほどの所にある落研の後輩、松弥君のアパートに泊まった。松弥君の部屋には裸電球が下がっていた。裸電球の下で、少々込み入った話をしたのを覚えている。
そういう、いわゆる「定宿」を一回り泊まり歩いてから、やっと自分のアパートに帰るといった生活だったのである。
こう並べてみると、色んな人に迷惑をかけた。申し訳ない。
弥っ太君には「伝助は自分一人が孤独だと思っている」と言われた。痛い言葉だ。私としては、憧れの中原中也的な生活を実践していたつもりだったのだが…。無邪気な子どもだったんだな。本当に馬鹿だったなあ。
それでも、私が部屋を訪れると、皆、「よお。」と迎えてくれた。そして、小文治さんは「安芸」に、歌ん朝さんは「マネーチョット」に連れて行ってくれた。八海君は砧温泉に行ってから祖師ヶ谷大蔵駅前の飲み屋に一緒に行ってくれた。弥っ太君も「代一元」や「マネーチョット」に付き合ってくれた。三代目紫雀さんは、さんざっぱら飲ませてくれた後、当時としても珍しかったオープンリールのテープデッキで、色々な音楽を聴かせてくれた。皆皆優しかった。その優しさに私は甘えた。
本当に馬鹿だったなあ。
本当に本当に、私は馬鹿だったなあ、と今更ながら思うのだ。
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