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2012年4月7日土曜日

金子光晴『どくろ杯』

永遠の不良少年、詩人金子光晴の自伝である。
妻三千代との馴れ初めから、上海行、その留守中に起きた妻の恋愛事件、そして5年に渡る海外放浪の発端を語っている。時は大正、関東大震災直後の終末的な雰囲気漂う時代背景だ。
それにしても、大正の恋愛は見事に肉食系だな。がつがつと一途にお互いの肉を貪り食う。妻の妹が寝ている隣でも交わる。「お姉さん、息が苦しいの?」と言う妹に対し、妻の上に乗っている光晴が「心配しないで、今、義兄さんが療治しているから。」と答えるなんざ、凄いねえ。
若い恋人のもとへ妻を取り返しに行く場面も、苦いが何とも言えない味わいがある。
この恋愛事件を清算するため、光晴は三千代を連れてパリへ行くことを企てる。三千代はパリへ行く前に恋人と旅行をするのを許すという条件で受け入れる。その旅行先が、茨城県高萩なのだ。『家宅の人』の檀一雄は情人と牛堀へ旅行した。茨城も昔はけっこうな観光地だったのね。
パリへ行くと言っても、直接行けるような金はない。そこで、まず大阪へ行き、そこで金を作って取り敢えず上海へ渡るという、極めて頼りない計画だった。
この大阪の場面が面白い。大阪での案内役は正岡容。光晴たちが泊まった旅館が初勢旅館。これは東京から大阪に出演しに来た芸人たちの定宿であった。(八代目桂文楽もこの宿に泊まった。文楽はここから三代目三遊亭圓馬のもとに稽古に通ったのである。)この宿を拠点に繰り広げられる乱痴気騒ぎ。正岡の奇人ぶりが楽しい。金子光晴も寄席が好きだったのか、しきりに芸人のことが話題に上る。
そして、上海での爛熟退廃の日々。大陸の退廃はスケールがでかい。どうしようもない。その中を、光晴と三千代は堂々とそして淡々と泳ぎ回る。二人とも胆の太い点ではお似合いのカップルだ。
タイトルの「どくろ杯」というのは、文字通り人間に頭蓋骨で作った酒器である。上海で光晴がつるんでいた友人が持っていたものだ。蒙古で手に入れたもので、男を知らない処女の骨だという。そして、この「どくろ杯」に憑りつかれた男も登場する。彼はガラス吹きの職人だが、話のついでに光晴が「どくろ杯」の話をすると、異常な関心を示した。遂には自ら墓を暴き死骸を盗んでどくろ杯を作ってしまう。この男が幽霊に悩まされ、相談を受けた光晴が、一緒にそのどくろ杯を墓に返しに行く。「くらくして見た子供のどくろは…陰火でぼうぼう燃えているようにさえみえた。」とは陰惨な描写だな。
小林清親門下の画家でもある光晴は、絵を売って金を作りながら、上海からシンガポール、ジャワに渡り、パリを目指す。やっと一人分の旅費を得て、三千代だけ先にパリへ見送るところで、ひとまずこの話は終わる。
それにしても、恋人を持つ妻との道行というのはどんな気持ちなんだろう。志賀直哉の『暗夜行路』の主人公時任謙作は、たった一度の妻の過ちを許せず七転八倒の苦しみを味わうが、光晴は、他の男に体を許した妻を抱くという被虐的な悦びと、そして恋人から妻を引き離すという加虐的な悦びを感じている節がある。したたかで食えない。
しかも、この文章を書いた時、金子光晴は75歳だ。全くとんでもない爺さんだなあ。

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