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2012年9月30日日曜日

じょんじょこ

昔、小田急向ヶ丘遊園駅の近くにあった、中華料理店「じょんじょこ」。
折に触れ思い出すのだが、この店の名前の由来が分からない。

2012年9月27日木曜日

梨園の御曹司

小学生の頃、うちは梨農家だった。いわば、私は、梨園の御曹司だったわけだ。
もっともそうは言っても、大規模な果樹園だったわけではない。屋敷の東側の細長い畑に梨を植え、親父とお袋、夫婦二人でやってけるだけの、つつましい梨園であった。
うちの梨は、土地が合っていたせいか、甘くて旨かった。評判もよく、学校の先生なんかも買いに来たし、夏休みのラジオ体操では、あそこでは梨が食えるというので、よく会場になっていた。
梨には、赤梨と青梨の系統があって、赤梨は甘味、青梨は酸味がウリだった。この辺りでは赤梨が主流だったな。
私が子どもの頃は、何と言っても長十郎。高級品が幸水だった。長十郎の固くて甘いのが、私にとっての梨だった。
現在は豊水が主流だが、うちの妻は幸水の方が好きだと言う。私も、幸水の上品な甘さがいいな。
子どもの頃は、それこそ食べ飽きるほど身近なものだったが、随分前に梨を作るのをやめてしまった。手間はかかるし、運ぶのは重いし、結構大変なのだ。お袋は長年梨を運んだのが祟ったのか、腰が曲がってしまった。

鳥取の小柳師匠が毎年、梨を送ってくださる。鳥取と言えば、言わずと知れた二十世紀である。青梨系統の代表選手だ。ルーツは関東だという。何となく縁を感じる。
赤梨を食べなれた舌には、青梨の爽やかな酸味が新鮮である。きりっと冷やして白ワインに合わしてもいいですな。

2012年9月25日火曜日

伝助の根多帳⑤

うちの落研には「3年の会」という発表会があった。
これは3年の夏休みに、その代のうちの1人の地元を選んで、落語会を開くのである。
私が1年の時は、佐助さんの地元、石川県小松市でやった。2年の時は、3年生が三代目の紫雀さんと美恋さんの2人だった。この代は、確かどちらの地元にも行かず、上野の本牧亭を借りてやったんじゃなかったかな。
私の代は、私の地元でやった。地区の集会所を借りて寝泊まりし、村の公民館で村の社会教育のイベントとして開いてもらった。
佐助さんの代が7人いて、「七福神の会」と銘打っていたので、8人だった私たちの代は、「八笑人の会」とした。そのパンフレットが今でも残っていて、以前このブログでも写真をアップしたことがある。
この会で、私はトリを取った。演目はネタ下ろしの『たがや』。中学生の頃、金原亭馬生のを聴いて以来、大好きな噺だった。
この噺の華は、何と言っても、たがやの切る啖呵だろう。私は割と口調がよかったし、啖呵を切るのは苦ではなかった。だけど、これが客にウケるかというと話は別だ。
以前も書いたが、『大工調べ』を演った柳家小三治が、七代目橘家圓蔵師匠から「お客はお前の怒りを聞きたいわけではない。」と言われたというエピソードがある。これと同じことが、私の『たがや』にも言えたんだろう。気を入れれば入れるほど、客が引いていくような気がしたし、口調もどんどん速くなっていった。やはり、『大工調べ』の芸談で、五代目柳家小さんが、「啖呵はゆっくり喋って速く聞こえるように。」と言っていたね。
また、最近になって気づいたこともある。たがやと侍が対決する両国橋は、川開きの夜で雑踏を極めていた。この観客の存在が、この事件には大きく影響しなかったか。侍が頑なに、たがやを許さなかったのも、大勢の人の前で恥をかかされたからであろうし、たがやの啖呵にしたところで、「許してやんなよ。」という野次馬の言葉が後押ししたに違いない。斬り合いになるまで事がエスカレートしたのは、観客がいたからこそ、なのではないか。
してみれば、この噺の主役は、たがやというより、むしろ観衆なのかもしれない。(若き日の春風亭小朝はこの噺を得意にしていたが、観衆から「たがやコール」が沸き起こるのを受けて、たがやが、阪神タイガースの掛布よろしく素振りを始める仕草を挿入したものだ。)たがやを、権力を振り回す侍を打ち倒すヒーローとして描くより、川開きの夜、大勢の観衆の前で繰り広げられる剣戟によって、異様なまでに盛り上がる様をこそ、描くべきなのかもしれない。
元々のサゲは、たがやの首が飛ぶという設定だったが、観衆のカタルシスを昇華させるためには、やはり、お侍の首が飛んだ方がいいのだろうな。
こうやって、落語についてあれこれ考えるのは、噺と遊んでるみたいで楽しい。あの頃はそんな余裕はなかった。今は落語を演る機会がないんだけどね。
『たがや』は季節もので、高座でかけることはあまりなかった。客前で場数を踏めば、何とかなったとは思うのだが。好きな噺なんだがなあ。

2012年9月20日木曜日

小声でつぶやく

生きているうちに体験することはないだろうなあと思っていた震災も、原発事故も起きてしまった。
まさか次は戦争じゃないだろうな。それだけは勘弁してもらいたい。
そんなことを思いながら、小声でつぶやく。

天下国家は語りたくない。
妻や子との小さな幸せを語りたい。
日々に移ろう、いじましい自分の気持ちを語りたい。
旨い酒や食い物なんかの、ささやかな楽しみを語りたい。 好きな芸について語りたい。
私は、岸辺に座り川の流れを見つめていたいのだ。

下の写真は、暦の上では初秋だが、晩夏の風情の東京庵。 こういう世界を愛でていたいんだ。

2012年9月17日月曜日

おまつりに行って来た

午後から妻子を連れて石岡のおまつりへ行く。
昨夜の反省を生かし、高浜駅前の駐車場に車を止め、電車を使う。 どうやら、このやり方がいいみたい。時間も読めるし、歩く距離も少なくて済む。
子どもたちは、すぐ射的やらくじやらチョコバナナやらに夢中。
八間道路には山車が並ぶ。壮観。
金丸通りから駅前を経て、八間道路へ幌獅子のパレードが続く。
最終日とあって、人出も多かったな。 道行く人が、「久しぶり」なんて言い合っているのも好もしい。観光客よりも近隣から来ている人が多いのだろう。地元に根ざしたお祭りなのである。
まあ20年ぐらい前は、やってる人が勝手に盛り上がっている感が否めなかったが、ここ数年、大分見る人を意識したお祭りになってきた。
妻の具合が悪いのと、次男が飽きてきたので、1時間半ぐらいで帰る。
夕食は敬老の日ということで、親父の好きな鰹の刺身でビール、酒。気仙沼の舟尾灯(ともしび)、旨し。

ではお祭り風景を少し。
まずは八間道路の山車。
幌獅子の先導は富田町のささら。
幌獅子の先頭は土橋町。
大小路の会所は歴史的建造物です。贅沢なもんですな。

2012年9月16日日曜日

秋の夜長、三上寛を聴く

昨日は子どもの運動会。
昼過ぎに雷雨になり、最後までできなかった。
障害物競走で長男が1等、次男が3等。長男の1等賞は初めて。うちの子たちは、まともな駆けっこでは勝負にならないんだよ。親子ともども嬉しかった。

今日は仕事。
夕方、妻子を連れて石岡のおまつりに出かけたが、車を止められず断念。兄弟喧嘩が収まるのを待って出たら遅くなっちゃった。
仕方がないので、はま寿司で夕食。私は寿司をつまみに、ビール、酒を飲む。
風邪気味の妻は早めに寝た.私は一人、三上寛を聴きながら、ウイスキーを飲む。

写真は道端に咲いていたコスモス。連日厳しい残暑だが、秋はやって来る。

2012年9月11日火曜日

お祭り直前の石岡

この間の日曜日。
次男と野球やって、昼はヨークベニマルで買ってきたパンを食べ、午後に少し石岡の街を歩いた。
お祭りまで1週間。街も浮き足立ってきたね。 街中を、借りたマイクロバスに乗って、お囃子を鳴らして巡回してた町内がいくつかあった。
おっ、高木書店が元の場所に店を出した。店内には古い写真がいくつか飾ってあった。いいねえ、さすが老舗。
しばのやで気仙沼の酒を買って帰る。
晩飯は手巻き寿司。子どもたち大喜び。私は刺身で買ってきた酒を飲む。おかみさんが「魚介によく合いますよ」と言っていたけど、その通り。端麗で旨かった。

2012年9月9日日曜日

立川談之助『立川流騒動記』

著者は立川談之助。立川談志の落語協会時代からの弟子である。
談之助との出会いは、ちょっとばかり不幸なものであった。初見は落語でなく講演。これが面白くなかった。落語でいえば投げた高座であった。思ったより受けなったのであろうが、聴衆をこんなもんだと高をくくっていた印象は否めなかった。
その後、彼のHPを見つけた。その中の、「噂の志ん相」という掲示板は面白かった。特に読者からの質問に対する答えは、理路整然として分かりやすかった。
この本もそうである。師匠立川談志との年月が、理知的に客観的に語られる。資料としても一級品だな。談志礼賛に淫していない。程よい距離感は、快楽亭ブラックに通じる。
談志の参議院議員時代の秘書としての体験談、落語協会分裂騒動、落語協会脱退立川派旗上げ等、波乱万丈の内容。しかし、それらはすべて著者の望んだことではない。風雲児、師匠談志がやらかしたことに巻き込まれただけのこと。天才は常に人を翻弄する。
私としては、著者の明治大学落研時代の話が楽しかった。「明大落研物語」といった趣がある。しかも、登場人物が贅沢だな。先輩に三宅裕司、同輩に立川志の輔、後輩に渡辺正行、立川談幸。凄いよなあ。
談之助は、群馬の名門、前橋高校から明治大学に進んだ。本人の言う所では、ろくすっぽ勉強もしなかったという。頭のいい人なんだ。文章からもそれが分かる。それだけに、がつがつとしたところがない。自分の立ち位置も、自分でこんなもんかな、と決めてしまう。どこかしら冷めた感じ。でも、こういう本を書くにはうってつけの人だ。余計なフィルターがかからないのがいい。
実はこの本は、談志がまだ健在の頃に企画されていたものらしい。やっと出版の話がまとまった辺りに談志が死んだ。それを機に、談之助は原稿を書き換えたという。「師匠が見るかもしれないということでフィルターをかけた部分をすべて外す」ことにしたのだ。そうだよな、怖いもんな、談志師匠。
でも、暴露本ではないぞ。稀代の天才立川談志と、彼の引き起こした数々の事件の真摯な記録である。
もっともっと、本を出して欲しい人だと思うね。

2012年9月6日木曜日

旧K医院

旧K医院の建物。
震災の後、足場が組まれていた。解体か、と思っていたが、屋根を銅葺きにして、ペンキを塗りなおした。ほっと胸をなでおろす。
子供の頃は、ここがかかりつけのお医者さんだった。おじいさんの先生は、アンプルを開けるときは指が震えているのに、注射の時は指の震えもぴたりと止まる、職人肌の人だった。
下の写真は改修前。瓦葺でしたな。

2012年9月3日月曜日

祭りのあと

吉田拓郎に『祭りのあと』という曲がある。「祭り」は1960年代に吹き荒れた学生運動の暗喩であり、その「政治の季節」が過ぎ去った後の虚無感やら敗北感やらを歌った歌である。
現在、カラオケでこの曲を入れると、お神輿担いだお祭りの様子と浴衣がけで一人酒を飲む男の映像が出てくる。「わざとやってるのか」と思うぐらいそのまんまの映像で、同僚のHさんなどは「あまりに浅い」と憤慨していた。
私が大学に入ったころは、その残滓がわずかだがあった。部室のあった建物の下のコンクリートの壁には、□○派のアジ看板がよく立った。独特の書体で、アメリカ帝国主義とそれに追従する日本政府を糾弾する文句が書き連ねられていた。
落研が所属していた学術文化会は、□○派の巣窟であり、その元締めのMという男は、8年も大学にいるゴリゴリの闘士であるという噂だった。
私が落研に入部して間もない初夏のある日、あの事件は起きた。
山の上の大学から下る坂道は、やがて住宅街を通るのだが、そこで二人の学生が突如現れた集団に鉄パイプで撲殺されたのだ。□○派と青のつくグループとの内ゲバだという話だった。後に、□○派は、「青と警察は結託していた」という趣旨の文書を各部に配った。事件後ただちに警察は検問を敷いたが、生田駅だけがもれていたという。犯人グループは生田駅から逃走したというのだ。
私たちはほんの1時間ぐらい前にそこを通り、事件があった頃には、先輩と向ヶ丘遊園駅前の林道という喫茶店にいた。多分、その日、私はどこかに泊まったのだろう。その晩のニュースで事件を知ったのだと思う。(私のアパートにはテレビがなかったのだ。)
翌朝、学校へ行く時、事件現場を通ったが、生々しい血痕がアスファルトの上に残っていたのを覚えている。
そして、よく晴れた水曜日、□○派の追悼集会が正門前の広場で行われた。
うちの大学のシンボル、3号館前に大々的にアジ看板が立てられ、マイクで闘士たちが演説を行った。
不幸なことに、その日は我が落研の校内寄席の日でもあった。我々1年は呼び込みをしなければならない。そんな状況ではないのは、こっちも百も承知である。しかし、先輩の命令には逆らえない。落研の法被を着て、私たちは呼び込みを始めた。「落語いかがですか。」「落語聴いていきませんか。」次第にいつものように声も大きくなっていった。
すると、□○派の闘士がやってきましたよ。「お前らどういう状況か、分かってるか?」おっかなかったなあ。「僕たちも呼び込みやらなきゃいけないんです。」と蚊の鳴くような声で答える。「じゃあ代表呼べ。」と言うので、雀窓さんを呼びに走った。
闘士と雀窓さんが話し合い、その日は呼び込み免除ということになった。私たちは寄席の会場になっている教室に入ったが、心なしか、いつもより客は少なかった。