ページビューの合計

2012年9月3日月曜日

祭りのあと

吉田拓郎に『祭りのあと』という曲がある。「祭り」は1960年代に吹き荒れた学生運動の暗喩であり、その「政治の季節」が過ぎ去った後の虚無感やら敗北感やらを歌った歌である。
現在、カラオケでこの曲を入れると、お神輿担いだお祭りの様子と浴衣がけで一人酒を飲む男の映像が出てくる。「わざとやってるのか」と思うぐらいそのまんまの映像で、同僚のHさんなどは「あまりに浅い」と憤慨していた。
私が大学に入ったころは、その残滓がわずかだがあった。部室のあった建物の下のコンクリートの壁には、□○派のアジ看板がよく立った。独特の書体で、アメリカ帝国主義とそれに追従する日本政府を糾弾する文句が書き連ねられていた。
落研が所属していた学術文化会は、□○派の巣窟であり、その元締めのMという男は、8年も大学にいるゴリゴリの闘士であるという噂だった。
私が落研に入部して間もない初夏のある日、あの事件は起きた。
山の上の大学から下る坂道は、やがて住宅街を通るのだが、そこで二人の学生が突如現れた集団に鉄パイプで撲殺されたのだ。□○派と青のつくグループとの内ゲバだという話だった。後に、□○派は、「青と警察は結託していた」という趣旨の文書を各部に配った。事件後ただちに警察は検問を敷いたが、生田駅だけがもれていたという。犯人グループは生田駅から逃走したというのだ。
私たちはほんの1時間ぐらい前にそこを通り、事件があった頃には、先輩と向ヶ丘遊園駅前の林道という喫茶店にいた。多分、その日、私はどこかに泊まったのだろう。その晩のニュースで事件を知ったのだと思う。(私のアパートにはテレビがなかったのだ。)
翌朝、学校へ行く時、事件現場を通ったが、生々しい血痕がアスファルトの上に残っていたのを覚えている。
そして、よく晴れた水曜日、□○派の追悼集会が正門前の広場で行われた。
うちの大学のシンボル、3号館前に大々的にアジ看板が立てられ、マイクで闘士たちが演説を行った。
不幸なことに、その日は我が落研の校内寄席の日でもあった。我々1年は呼び込みをしなければならない。そんな状況ではないのは、こっちも百も承知である。しかし、先輩の命令には逆らえない。落研の法被を着て、私たちは呼び込みを始めた。「落語いかがですか。」「落語聴いていきませんか。」次第にいつものように声も大きくなっていった。
すると、□○派の闘士がやってきましたよ。「お前らどういう状況か、分かってるか?」おっかなかったなあ。「僕たちも呼び込みやらなきゃいけないんです。」と蚊の鳴くような声で答える。「じゃあ代表呼べ。」と言うので、雀窓さんを呼びに走った。
闘士と雀窓さんが話し合い、その日は呼び込み免除ということになった。私たちは寄席の会場になっている教室に入ったが、心なしか、いつもより客は少なかった。

0 件のコメント: