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2012年9月25日火曜日

伝助の根多帳⑤

うちの落研には「3年の会」という発表会があった。
これは3年の夏休みに、その代のうちの1人の地元を選んで、落語会を開くのである。
私が1年の時は、佐助さんの地元、石川県小松市でやった。2年の時は、3年生が三代目の紫雀さんと美恋さんの2人だった。この代は、確かどちらの地元にも行かず、上野の本牧亭を借りてやったんじゃなかったかな。
私の代は、私の地元でやった。地区の集会所を借りて寝泊まりし、村の公民館で村の社会教育のイベントとして開いてもらった。
佐助さんの代が7人いて、「七福神の会」と銘打っていたので、8人だった私たちの代は、「八笑人の会」とした。そのパンフレットが今でも残っていて、以前このブログでも写真をアップしたことがある。
この会で、私はトリを取った。演目はネタ下ろしの『たがや』。中学生の頃、金原亭馬生のを聴いて以来、大好きな噺だった。
この噺の華は、何と言っても、たがやの切る啖呵だろう。私は割と口調がよかったし、啖呵を切るのは苦ではなかった。だけど、これが客にウケるかというと話は別だ。
以前も書いたが、『大工調べ』を演った柳家小三治が、七代目橘家圓蔵師匠から「お客はお前の怒りを聞きたいわけではない。」と言われたというエピソードがある。これと同じことが、私の『たがや』にも言えたんだろう。気を入れれば入れるほど、客が引いていくような気がしたし、口調もどんどん速くなっていった。やはり、『大工調べ』の芸談で、五代目柳家小さんが、「啖呵はゆっくり喋って速く聞こえるように。」と言っていたね。
また、最近になって気づいたこともある。たがやと侍が対決する両国橋は、川開きの夜で雑踏を極めていた。この観客の存在が、この事件には大きく影響しなかったか。侍が頑なに、たがやを許さなかったのも、大勢の人の前で恥をかかされたからであろうし、たがやの啖呵にしたところで、「許してやんなよ。」という野次馬の言葉が後押ししたに違いない。斬り合いになるまで事がエスカレートしたのは、観客がいたからこそ、なのではないか。
してみれば、この噺の主役は、たがやというより、むしろ観衆なのかもしれない。(若き日の春風亭小朝はこの噺を得意にしていたが、観衆から「たがやコール」が沸き起こるのを受けて、たがやが、阪神タイガースの掛布よろしく素振りを始める仕草を挿入したものだ。)たがやを、権力を振り回す侍を打ち倒すヒーローとして描くより、川開きの夜、大勢の観衆の前で繰り広げられる剣戟によって、異様なまでに盛り上がる様をこそ、描くべきなのかもしれない。
元々のサゲは、たがやの首が飛ぶという設定だったが、観衆のカタルシスを昇華させるためには、やはり、お侍の首が飛んだ方がいいのだろうな。
こうやって、落語についてあれこれ考えるのは、噺と遊んでるみたいで楽しい。あの頃はそんな余裕はなかった。今は落語を演る機会がないんだけどね。
『たがや』は季節もので、高座でかけることはあまりなかった。客前で場数を踏めば、何とかなったとは思うのだが。好きな噺なんだがなあ。

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