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2013年6月20日木曜日

五代目小さん批判を批判する

今回は引用から。文章は松本尚久編『落語を聴かなくても人生は生きられる』中の、「落語を聴かない者は日本文化を語るな」(小谷野敦)より。
「だが、小さんは『名人』ではなかった。それどころか、小さんの落語は『落語』だったのだろうか、とさえ思う。確かに笑いはとれるし、描写は巧い。だが、毒や翳がなさすぎる。だから生前、小さんは一般人には人気があっても、落語好きには人気がなかったと思う。実際、小さんの人気は顔の愛嬌にあったのであって、耳で聴くとあまり味がない。武家噺、長屋噺は演じられても、廓噺や人情噺はできない。小さんの落語は、お茶の間で安心して聴けるお茶の間落語であって、落語ではないと思う。談志師匠が袂を分かったのも当然である。」
呼んでの通り五代目柳家小さん批判の件だが、この文章を読んで以来、一度、きちんと異議を申し立てたいと思ってきた。 言いたいことは分かる。小さんのどのような部分を批判しているかも分かる。しかし、そこにリスペクトの欠片も感じないのは如何なものか、と思うのだ。
私は落語家になれなかった人間だ。落語は好きだったし、演じることにもささやかだが自信もあった。でも、なれなかった。怖かったのだ。人気という得体の知れないものに、人生を賭けることができなかった。それだけに、落語家の凄さが分かる。彼らは人生を博奕の元手にする覚悟を持った人たちなのだ。落語家について語るなら、そこにリスペクトがなければなるまい。お前、自分でできるか?安全なとこからもの言うな、である。
肝心の小さんの芸についてだが、「自分にはそのよさが分からない」と言えばそれでいい。くだくだと述べれば述べるほど、見識の浅さを露呈してはいないか。「小さんの人気は顔の愛嬌にあったのであって」に至っては暴論と言っていい。そんなことを、小三治、さん喬、権太楼、小燕枝、小里んなど、今も小さんの芸に惚れている弟子たちに、面と向かって言えるか。彼らはプロだぞ。
小さんは大向うをうならせるタイプではない。(例えば三遊亭圓生のように)だから、熱狂的に追いかける対象になりにくい。だが、落語を聴きこめば聴きこむほど、落語を愛すれば愛するほど、小さんの大きさが見えてくる。あまりに自然体なので見過ごしてしまいがちだが、その巧緻な構成は戦後の滑稽噺の型を完成させてしまったと言っていい。さらにきめの細かい描写、恬淡な語り口、登場人物への愛情、ひとつひとつ目立たないけど、きちんと聴いていれば、いつか見えてくるはずだ。
著者は談志信者らしいが、小さんを落とすことで談志を持ち上げるような真似は、当の談志も喜ばないだろう。乱暴に見えて立川談志という人は、先人へのリスペクトを忘れない人だった。まして、師であった人をあんなに悪し様に言われて嬉しいはずがない。
もひとつ言う。この人は「昼間、家族揃って聴けたら、それは落語とは違うもので、落語は大人の聴くものだ」と言うが、確かにそう言えばかっこいいけど、私も大人の落語が大好きだけど、落語はそんなに偏狭なものではない。もっと大きく豊かなものだ。お茶の間落語だって落語なのだ。(「お茶の間落語こそ落語だ」と言っているわけではない。念のため。)
久し振りに落語についてまとまった文章を書いた。感情的にならず、特定の立場に拠らないよう心掛けたつもりだが、判断は読者にまかせたい。好きなことを語るのは楽しい。でも、そこには、気楽な立場でものを言っているという自覚と、その道のプロフェッショナルへの敬意が、なくてはならないと私は思うのだ。

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