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2014年12月3日水曜日

出口一雄 生い立ち

お待たせしました。今回から「桂文楽と出口一雄」の本編を始めます。

まずは、Suziさんに、出口一雄の生い立ちから語っていただこう。

 「東京は浅草生まれ。後に家は根岸に移りました。明治40年4月8日生まれ。昭和51年2月15日に68歳で亡くなりました。お釈迦様と同じ日に生まれ、お釈迦様と同じ日に亡くなったことになります。」 
どんなにネットで調べても分からなかった、出口一雄の生年月日があっさりと明らかになる。

出口が終生敬愛した八代目桂文楽は明治25年生まれ。出口の15歳年長である。二人は本当に親子のようだったと、彼らを知る人々は口をそろえる。
文楽は本名並河益義といい、税務署長をしていた父親の任地青森県五所川原で生まれ、3歳の時、東京根岸の並河の家に戻った。
横浜に奉公に出された後、17歳で初代桂小南に入門。浅草の師匠の家に住み込みの内弟子となった。
こうしてみると、出口の出生地、育った町などが、文楽に縁が深いことが分かる。当時の東京の版図がまだ狭かったとはいえ、興味深い。 

「父親が貿易商で手広く仕事をしていて、かなり裕福でした。家には11も部屋があり、常に誰だか分からない書生が、入れ代わり立ち代わり住んでいたそうです。」 
出口の父親、策一は三重県出身。学歴は小学校卒業だが、上京後、貿易商となり、やがて商圏を上海にまで広げた。自慢は「明治神宮の鳥居のヒノキは一切俺が運んだんだ」ということだった。
 商売は順調。当時、東京では持ち家を持つ者は少なかったが、部屋が11もある豪邸に住み、奉公人もたくさんいた。
 「勉強は好きな方ではなかったみたい。ディック・ミネは立教の同級生で、彼が勘当された時は居候していたということですよ。」 

しかし、その豪邸も人手に渡る。策一が信用して全てを任せていた部下に裏切られ、会社を乗っ取られたのである。

 「立教を卒業して、伯父はポリドールに入りました。そして、ラジオ東京が開局して3年目に、芸能部に引き抜かれたのです。」

1998年に小学館から出た『CDブック八代目桂文楽』の中には、元東京新聞記者、富田宏の、こんな証言がある。
 「(出口一雄さんは)ラジオ・マンの前はポリドール・レコードの演芸担当として敏腕を振るった。従って演芸界での知名度は抜群だった。ディック・ミネと親友だった。立教大学相撲部の仲間だった。相撲の基本形スリ足が会話の途中に入ると、おのずとそのポーズが出た。手の構えが本格的だった。話し方がぶっきらぼうで、いつも苦虫を噛み潰したような顔だった。」 

ちなみに、この富田に関して、Suziさんはこんなことを言っている。
 「東京新聞の富田記者(まだお元気かな?)が、口述でいい、伯父の知識を書く、と言ったのですが、口下手の伯父はそれもせず、さっさと逝ってしまいました。」 

ポリドールが落語のSPレコードを制作していたことは、保田武宏著『志ん生の昭和』に書いてある。
 この本によると、志ん生は金原亭馬生時代、ポリドールから10枚のレコードを出していたという。
ネタが明らかになっているのは、「元帳」「甕」「夕立勘五郎」(昭和10年)「算術」「反対国」(昭和11年)の5演目。
昭和10年といえば、出口は既に28歳。まずポリドールの社員だったと見てよい。とすれば、志ん生のレコード制作に関わった公算は大きい。
Suziさんも、「志ん生の若い頃の金のない頃の話など、話したらきりがありません。」と言っていたから、多分、ポリドール入社間もなくには交流が始まっていたのだろう。 

ちなみに文楽が戦前・戦中に出したレコードは、判明しているので次の8枚。
 「子褒め」(陸軍特殊版、昭和11年)、「しめこみ」(オーゴン、昭和11年)、「寄合酒」、「船徳」(ともにビクター、昭和13年)、「素人義太夫」(ビクター、昭和14年)、「やかん泥」(リーガル、昭和17年)、「寝床」(テイチク、昭和20年)
 ご覧のとおり、ポリドールはない。
 しかし、前述の志ん生との関わりを見る限りでは、文楽との出会いもその頃だったのかもしれない。

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