「最初の結婚は、伯父が27、8の時でした。お相手は柳橋の芸者さん。きれいで頭のいい人でした。唄が歌えて、踊りがよくて、三味線は一流、という人でした。柳橋の芸者は芸者の中でも格は高いんです。」
まるで桂文楽の『つるつる』に出て来る小梅のような人。
「父も『兄貴がいちばん惚れていたのは彼女だ。』と言っていました。」
だが、出口は彼女と添い遂げることはできなかった。
「祖母がお嫁さんを気に食わなかったようです。」とSuziさんは言った。
Suziさんの言によると、出口一雄は15の年から女郎買いに通っていたという。しかも、その金は母親が小遣いとしてくれていたらしい。
素人の娘と間違いがあってはいけないから、というのがその理由だった。
この、出口一雄が女に対して早熟であった、ということに関し、Suziさんは、彼の祖父(Suziさんにとっては曾祖父にあたる)の血を受け継いだのではないか、と言っている。
(一雄にとっての)祖父は何度か結婚を繰り返したらしいが、その最後の妻は、長男(出口の父)のわずか1歳上という年齢だったという。
「その最後の奥さん、つまり、私の曾祖母は、曾祖父が亡くなったのを機に故郷の名古屋に帰りました。しかし、曾祖母は『出口』の名を残したくて、養女を取り、養子縁組をしました。そういうわけで、うちには名古屋に親戚があるのです。
ちょっと横道にそれましたね。とにかく祖母はこのお嫁さんが意に染まなかった。
どう説明したらいいのか知りませんが、伯父の顔は自分にそっくりだし、結構甘やかして育てたようです。祖母としては、女遊びの早熟長男ですが、望みもあったんでしょうねえ。(祖母の当時の)生き方において、兎に角不満であり、落胆です。それは息子ではなく、芸者上がりの女房に行くんですよね。偏見ですが仕方ありません。そういう時代ですよ。」
話は当時の子育てから出口家のことに及んだ。
「あの頃のそれなりの家の子ってほとんどお手伝いさん任せですよね。私は伯父の子守さんのことは全く知りません。兎に角、その当時は子供が生まれると、尋常小学校出(5年で修了です)の10歳くらいの女の子の子守奉公さんが付くんです。
10歳で奉公です。正に“おしん”の時代です。 父にも付きました。父の子守さんは、その後結婚したのですが(そういうのは全て雇っている家で負担しキチンと面倒を見ます)、娘が3歳の時に旦那に死なれ、また祖父母夫婦のところに戻り、その娘は叔母の妹のように育ちました。
そして母が結婚した時もいて、母は初め、この人どういう人?ってよく解らなかったそうです。またお祖父ちゃんが可愛がるので同居の妾に見られたこともあったりしましたが、おじいちゃんは堅物、仕事一本のヒトでした。一笑に付したそうです。
さて、この父に付いたばあやさんはズーーーッと我が家に居続け、昭和25年にお祖母ちゃんの亡くなった後は、正にお祖母さんでした。私の弟はこの人のしなびたおっぱいを吸って、眠り、甘え、大きくなり、彼にとってはこの人がお祖母ちゃんなのです。後に胃がんで亡くなりました。」
明治45年1月20日撮影の出口家の家族写真。(写真:Suziさん提供)
中央の椅子に座っている子どもが出口一雄(当時6歳)。
左後方に父策一(当時38歳)。
左に弟利雄(当時4歳)、さらに左は母フク(当時29歳)。
右は女中やす(当時16歳)。
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