「とにかく芸者を嫁にすることは認められなかったんじゃないですか。如何に頭が良くて芸も何でも出来ても、寺の娘で育ったお祖母ちゃんは、初めっから許さなかった、許しがたかったんでしょう、お嫁さんがいくら努力してもネ。それが悲しいあの時代の世間一般の常識的(?)見解だったのでしょう。
ちなみに、私は自他共に認めるウーマンリブの人間です。後からこのことを母から聞いたり叔母から聞いたりして、随分カッカと来たものです。父そっくりな性格ですが、そういう点ではいつも父とは喧嘩ばかりしていました。私の年代で絶対平等主義ですから、到底日本じゃアウトサイダー、それが私です。アメリカンと一緒になれた自分に感謝しています。
おじいちゃんは物静かな何も言わない、苦労して貿易商になったたたき上げの人でしたから、いい人で人格者のようですが(母がいつもそういっていました)、祖母は、私の父、叔母(これもワガママな自分勝手な人で、結構やきもち焼きの人でした。何時までも子供、の人でしたね。戦争で婚期を逃し、後妻で商人の家に嫁ぎました。その旦那である私の義理の叔父さん(本当に優しくていい人でしたよ)がいつも言っていましたが、ワガママな勝手な甘やかされた娘で女房なのです。
私は伯父の最初の奥さんのことを『ボッチャンバーチャン』って呼んでました(何でだか知りません)。 あの時代です。寺の娘に育ったおばあちゃんには芸者に対する偏見が一杯あったのでしょう。そのような状況ではお嫁さんには針の筵でしょうね。気の毒としか言えません。」
さらに祖母の人柄についてSuziさんはこう続ける。
「要するに食事はばあやさん任せ、身の周りは子守さん任せに世話をされ、それじゃマトモに子供は育ちません。ワガママいっぽうで勝手な大人に育ちますよね。
私の母にも、小さい時には子供が多かった(7人)から、子守さんは付いたそうですが、3、4歳頃には居なくなり、お祖母ちゃん(母の母)が厳しく育てたんでしょう。
それに対し、父、伯父、叔母の母である祖母はそんなにマメに色々した人じゃないんです。いつも冬はデーーンと火鉢の前に一日中坐りぱなしでタバコくゆらせ……、だから早く呆け、早く死んだんだと思います。確か60くらいから呆け出しました。
当時、いたずらっ子の私は祖母をからかったり、後から行って『わつ!!』なんて脅かしビックリさせるのが大好きでした。母に怒られましたねぇ。まあ、いたずらっ子でしたから。
すばしっこいことは天下一品、と親戚中、近所中で評判でした。エネルギーが一杯一杯あって、じっとしていることのできない子でした。」
結局、出口一雄夫婦は両親とは別居という形で結婚生活をスタートさせる。その結果、弟夫婦(Suziさんのご両親である)が両親と同居することとなった。
「私の母は近衛兵の娘で、話し方は典型的山の手弁、上品な言葉使いでした。それに対し、私は親父ソックリな子で、母とは似ても似つかないおてんばな子でした。(母も若いときは水泳にテニスにと言うスポーツウーマンですが、100%父そのものが私。母と同じなのは女、と言うだけの父のミニチュアが私です)
その上母は陽気だし、料理でも洋裁でも何でもできる利口者の、そしてしゃしゃり出ない。そういう母が気に入られてしまうのは致し方ない状況ですよね。
時代が時代なら何てことはないし、長男の嫁だろうとなんだろうと、別居したっていいんですからね。伯父たちは近くと言うか、詳しくは知りませんが、敷地内みたいな所に住んでいたのでしょう。
ま、色々伯父には問題がありましたので、祖父母は、私の両親と住むしかなかったのでしょう。父が『俺は次男坊だぜ、何で祖母さんと一緒なんだよ、』と言うと、母がそれをいつも戒めていましたよ。
伯父は死ぬまでこの母の態度と接し方に感謝し続けました。『俺はな、利雄にゃあなんにも世話になっちゃいねえよ。だけど、百合子さんには一生頭が上がらねえな』でした。」
こう言う情況下では夫婦生活はうまくいかず、出口は最初の妻と別れることになる。
「母は『最初の奥さんだって頭のいい、とっても素晴らしい人で随分努力したいい人だったのよ』と言っていました。」
出口一雄、最初の妻との結婚写真。
以下は彼女の写真である。(いずれの写真もSuziさん提供)
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