「私の父は、子どもを抱っこするなんて、決してしない人でしたが、伯父はよく抱っこしてくれましたね。もし子どもができていれば、子煩悩な父親になっていたんじゃないでしょうか。他人様が見ると伯父が父親みたいだった、って母が笑って言ってました。
私も伯父に甘えたりなついたりしたそうです。可愛がってもらったんですねぇ。勿論何の記憶もありませんが。」
Suziさんからいただいた写真の中に、Suziさんを抱く出口の写真がある。
以下に掲載する。
後年、出口は会社を定年退職してデグチプロを設立するが、その新富町の事務所は妻の実家であった。
その後のことについてSuziさんはこう言う。
「新富町の伯母の家の二階に住み、そこがデグチプロのオフィスになっておりました。そこからデグチプロは出発し、その後、新宿の牛込辺りのアパートに移り、後年金も出来たので伯父は生まれて初めて六本木のマンションを買い、家主になりました。勿論此処がデグチプロの移転先です。人生で初めての持ち家であり。これが最初で最後です。可笑しなことに伯父の家のナンバーは六本木マンション805。毒蝮三太夫のオフィス、マムシプロは508だったと思います。
マンションはフランスベッドの会社のまん前、俳優座のすぐ近くでした。部屋は805なので高速道路のずっと上に位置します。窓を開けると車の走る音のうるさい事この上なし。閉めると全く音が遮断されます。中学生(?)だった私は開けたり閉めたりして、伯父に『うるせえ』って怒られたのを覚えています。」
ただし、京須偕充の著作では、『みんな芸の虫』でも『圓生の録音室』でも『落語名人会 夢の勢揃い』でも、一貫してデグチプロ事務所は新富町としてある。三遊亭圓生のレコード制作を交渉する場面や桂文楽のレコード監修に際してのやりとりなど、出口の晩年時における舞台はすべて新富町の事務所が舞台である。
『落語名人会 夢の勢揃い』の中では、1973年当時の事務所の様子が詳細に描かれている。以下に引用する。
*( )内はSuziさんのコメントである。
「やはり二階家で、階下は二つに区分され、向かって右が印刷か製本かの作業所(これは伯母のお兄さんのやっていた印刷会社なのではないでしょうか)、左は内部の見えない、ドアひとつに閉ざされた狭いスペースだ。表札に『デグチ』とあるだけだから、ここがどういう職種の事務所なのか、知らない人には皆目見当がつくまい。表札がカタカナでなかったら、入り口を捜しに裏へ回る頓馬もいただろう。」
そして、こうも書いている。
「とはいえ、あとで聞くと主人公出口一雄の住まいは、そのころ若者が群れて夜を明かす街、六本木にあったのだから、これもまたおもしろい。俳優座劇場からいまのアークヒルズへと坂を下りかかる途中の大きなマンションの一室だった。新富町の事務所は妻女の実家の一隅だったらしく、往復の足は、そのカミさんの運転するマイカーだった。」(伯父も私の父も運転はしません。理由は簡単です。「運転をすると飲めねぇじゃねえか」だからです)
もちろん、自宅が仕事場としての機能も果たしていたのだろう。
「デグチプロオフィスはもしかしたら新富町が正しいのかもしれません。ただ朝方などはこの六本木の自宅から電話をして仕事の打ち合わせや、書類を見ていた伯父を思い出します。それを私がオフィス、と混同しているのかもしれませんね」とSuziさんも言っている。
以上「出口一雄と妻たち」の稿、終わり。
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