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2015年4月26日日曜日
新緑の季節
昨日、床屋に行くのに散歩がてら歩いて行ったんだけど、いい季節になりましたな。
木々が色んな緑に芽吹き始めた。
もっともこの時期は、仕事の上では何かと行き違いやトラブルが起きやすく、あまり得意な方ではない。
でも、救いはこの新緑だ。まさに今だけの色彩なんだよな。
下の畑は八重桜が満開。これもまたいいもんですなあ。
息子二人を連れて行った、数学者秋山仁先生の講演で印象に残った所。
蝉には、種類によって寿命が4通りあって、それぞれ7年、11年、13年、17年とのこと。これらはすべて素数。素数の最小公倍数は、お互いを掛けた数。つまり、それぞれの寿命(=産卵の年)が素数であるために、種の絶滅の恐れがある大量発生が、最大限先送りになっているというのだ。
すごいなあ。この世に存在するものには、すべて意味がある。
夕食は鰹の刺身で酒。
「目には青葉山ほととぎす初鰹」というわけで、もう1枚新緑の写真を。
2015年4月22日水曜日
出口一雄 ラジオ東京(TBS)時代③
昭和30年(1955年)、ラジオ東京はテレビ放送に進出、ラジオ東京テレビ(KR)が開局した。現在のTBSである。出口一雄もKRの芸能課長となる。
このテレビというメディアで瞬く間にスターの座に上り詰めた落語家がいた。
「昭和の爆笑王」初代林家三平である。
この三平を売り出したのも、出口一雄であった。
神津友好の『笑伝 林家三平』の中にこんな一節がある。
* * *
人形町末広の楽屋口を出ようとして、三平は呼びとめられた。
「あ、ちょっとちょっと、出口だがね」
「はい、出口だったらあちらですよ」
「なにをいっとるんだよ、わたしはKR(ラジオ東京テレビ)の出口だ!」
もう少し売れている芸人だったら出口さんを知らないはずはなかったのだが、なにしろ売れない二ツ目だからKRの出口芸能課長の顔を知らなかったのも無理はない。そのとき出口さんも、声をかけた場所が勘ちがいしそうな楽屋口であったことに気づかず、〈この野郎、シャレのきついヤツだ!〉と三平に腹を立てていた。
しかし仕事は仕事、KRがテレビ開局早々のサスプロ番組(スポンサーなしの自主提供)として、「新人落語会」という若手落語家の視聴者投票コンクールのような番組を、赤坂のスタジオから生放送していた。
その司会役に三平を、出口さんが起用してくれたのだった。
* * *
当時の三平の評価は「落語はおそろしく下手だが、ことによると大化けするかもしれない」というものだった。
出口の尊敬する桂文楽は練に練り上げた一部の隙もない端正な芸で知られる。もちろん、出口の芸の好みもそのようなものであったろう。しかし、その文楽の孫弟子にして、落語としては滅茶苦茶な、それでいておそるべき破壊力を秘めた三平を、出口は抜擢したのだ。
ここに出口のプロフェッショナルを感じる。 先に引用した場面でも、出口は初対面の三平に腹を立てている。しかし、何気なく書かれているが、「仕事は仕事」なのだ。出口は人の好き嫌いは激しいが、私情で仕事はしなかった。
どちらかといえば自分の好みとは対極にある無名の若手の可能性を見出し売り出す。後から思えば、テレビほど三平にうってつけの媒体はなかった。あのオーバーアクション、決めのポーズ、愛嬌にあふれた豊かな表情、どれもこれもテレビでこそ映えるものだ。つくづく出口一雄の炯眼に恐れ入る。
Suziさんが送ってくださった資料の中には、内海桂子・好江が、出口によって、ラジオ東京の落語と歌謡曲をパックにした演芸番組の司会に起用した話が載っている。
内海桂子は「ここまでやってこられたのは出口一雄さんのおかげです」と感謝の意を表しながらこのエピソードを紹介した後、こうように書いている。
「これは私だけのお願いかもしれませんが、ラジオ、テレビそのほかの演芸に携わる方々に定年は無用だと思います。演者の年齢に合わせたプロデューサーがいらしてこそ芸人は落ち着いて年がとれるのではないでしょうか。 いま活躍している(この資料が書かれたのは「亡くなった小円遊さん」とあるので1979年頃だと思う)中年の真打さんは、みんなこの出口一雄さんにお世話になった方々です。」
出口の仕事は、「芸人たちのために」という側面が多分にあった。専属制にしろ、専属料や出演料のおかげで、どんなに落語家の生活が向上したか(五代目小さんは専属料を元手に目白の家を建てた)。ぶっきらぼうで無愛想と言われた出口一雄が多くの芸人たちに慕われたのは、決して不思議なことではなかったのだ。
また、出口は芸人よりも表に出るのを嫌がった。その象徴的なエピソードがある。(これもSuziさんから聞いた話である。)
『綴り方教室』で売った柳亭痴楽が口演中客席に出口を見つけた。そこでアドリブで「ラジオ東京の出口様、表で狐が待ってます」とやったところ、出口が激怒、痴楽は大目玉を食ったという。
楽屋落ち的な笑いが嫌いだったこともあるのだろうが、裏方である自分を客前に出すような感覚や、そのことで自分にある種の権威がまとわりつくような感じが許せなかったのだろう。昨今目につく「**プロデュース」なんていう売り方は、出口一雄には到底できない。「そんな野暮な真似ができるか」という出口の苦い顔が目に浮かぶ。
Suziさんによれば、出口はTBSを定年になった時は、用意された重役の椅子を蹴って退社したという。表に出ることが嫌い。権力を持つのが嫌い。出口一雄はどこまでも出口一雄だった。
以上で『出口一雄 ラジオ東京(TBS)時代』の稿を終了します。
このテレビというメディアで瞬く間にスターの座に上り詰めた落語家がいた。
「昭和の爆笑王」初代林家三平である。
この三平を売り出したのも、出口一雄であった。
神津友好の『笑伝 林家三平』の中にこんな一節がある。
* * *
人形町末広の楽屋口を出ようとして、三平は呼びとめられた。
「あ、ちょっとちょっと、出口だがね」
「はい、出口だったらあちらですよ」
「なにをいっとるんだよ、わたしはKR(ラジオ東京テレビ)の出口だ!」
もう少し売れている芸人だったら出口さんを知らないはずはなかったのだが、なにしろ売れない二ツ目だからKRの出口芸能課長の顔を知らなかったのも無理はない。そのとき出口さんも、声をかけた場所が勘ちがいしそうな楽屋口であったことに気づかず、〈この野郎、シャレのきついヤツだ!〉と三平に腹を立てていた。
しかし仕事は仕事、KRがテレビ開局早々のサスプロ番組(スポンサーなしの自主提供)として、「新人落語会」という若手落語家の視聴者投票コンクールのような番組を、赤坂のスタジオから生放送していた。
その司会役に三平を、出口さんが起用してくれたのだった。
* * *
当時の三平の評価は「落語はおそろしく下手だが、ことによると大化けするかもしれない」というものだった。
出口の尊敬する桂文楽は練に練り上げた一部の隙もない端正な芸で知られる。もちろん、出口の芸の好みもそのようなものであったろう。しかし、その文楽の孫弟子にして、落語としては滅茶苦茶な、それでいておそるべき破壊力を秘めた三平を、出口は抜擢したのだ。
ここに出口のプロフェッショナルを感じる。 先に引用した場面でも、出口は初対面の三平に腹を立てている。しかし、何気なく書かれているが、「仕事は仕事」なのだ。出口は人の好き嫌いは激しいが、私情で仕事はしなかった。
どちらかといえば自分の好みとは対極にある無名の若手の可能性を見出し売り出す。後から思えば、テレビほど三平にうってつけの媒体はなかった。あのオーバーアクション、決めのポーズ、愛嬌にあふれた豊かな表情、どれもこれもテレビでこそ映えるものだ。つくづく出口一雄の炯眼に恐れ入る。
Suziさんが送ってくださった資料の中には、内海桂子・好江が、出口によって、ラジオ東京の落語と歌謡曲をパックにした演芸番組の司会に起用した話が載っている。
内海桂子は「ここまでやってこられたのは出口一雄さんのおかげです」と感謝の意を表しながらこのエピソードを紹介した後、こうように書いている。
「これは私だけのお願いかもしれませんが、ラジオ、テレビそのほかの演芸に携わる方々に定年は無用だと思います。演者の年齢に合わせたプロデューサーがいらしてこそ芸人は落ち着いて年がとれるのではないでしょうか。 いま活躍している(この資料が書かれたのは「亡くなった小円遊さん」とあるので1979年頃だと思う)中年の真打さんは、みんなこの出口一雄さんにお世話になった方々です。」
出口の仕事は、「芸人たちのために」という側面が多分にあった。専属制にしろ、専属料や出演料のおかげで、どんなに落語家の生活が向上したか(五代目小さんは専属料を元手に目白の家を建てた)。ぶっきらぼうで無愛想と言われた出口一雄が多くの芸人たちに慕われたのは、決して不思議なことではなかったのだ。
また、出口は芸人よりも表に出るのを嫌がった。その象徴的なエピソードがある。(これもSuziさんから聞いた話である。)
『綴り方教室』で売った柳亭痴楽が口演中客席に出口を見つけた。そこでアドリブで「ラジオ東京の出口様、表で狐が待ってます」とやったところ、出口が激怒、痴楽は大目玉を食ったという。
楽屋落ち的な笑いが嫌いだったこともあるのだろうが、裏方である自分を客前に出すような感覚や、そのことで自分にある種の権威がまとわりつくような感じが許せなかったのだろう。昨今目につく「**プロデュース」なんていう売り方は、出口一雄には到底できない。「そんな野暮な真似ができるか」という出口の苦い顔が目に浮かぶ。
Suziさんによれば、出口はTBSを定年になった時は、用意された重役の椅子を蹴って退社したという。表に出ることが嫌い。権力を持つのが嫌い。出口一雄はどこまでも出口一雄だった。
『笑伝 林家三平』表紙。
イラストは南伸坊。
出口一雄との交流を綴った内海桂子の新聞記事。
(Suziさん提供)
以上で『出口一雄 ラジオ東京(TBS)時代』の稿を終了します。
2015年4月21日火曜日
出口一雄 ラジオ東京(TBS)時代②
専属にした5人の落語家の中で、出口にとって最も特別な存在は八代目桂文楽だった。
京須は前述の著作の中でこんなふうに書いている。
「そんな出口にとって黒門町―八代目桂文楽だけは例外だった。文楽への批判は許さなかった。文楽についての誤った、あるいは不十分な情報も認めなかった。桂文楽は彼にとって生涯、神様であったようだ。」
文楽にとっても出口は重要な人間であった。
川戸貞吉編『対談落語芸談』で五代目三遊亭圓楽は文楽を「たぐいまれな幸運児」とし、その根拠を次のように語っている。(以下圓楽の部分を抜粋引用する)
「まず出口さんというもっとも桂文楽を愛していた人を番頭さんにしたということね。これァもう番頭さんというよりブレーンですね。
それからTBSの専属だったということ。それがためにあの文楽師匠は、時間の制約がなく、気ままに出来たっていうことがあるでしょ、あの師匠に限っては。 おそらくねェ、どのネタでも、文楽師匠のはぴったり28分なんて、30分番組に寸法通りの噺はないですよ。みんな23分であったりね、21分であったり。20分デコボコが多いんですよ。そうすとね、あとどうするかというと、対談やなにやらで埋めて、そうして大事に使われたということですね。
そして季節感のある噺が多かったもんですから、夏ンなると『船徳』、『酢豆腐』、ね?冬ンなるとなにッていうふうに、ピシャアッと頭ンなかで全部出口さんが計算して、出してましたね。したがって、飽きも飽かれもしなかったということね。」
昭和20年代後半から30年代にかけて、文楽は昭和の名人への階段を駆け上ってゆく。芸術祭賞も紫綬褒章も、落語家初の栄誉に輝くのは文楽であった。安藤鶴夫や正岡容等の文筆による文楽礼賛がその後押しをしたのは間違いない。その一方で出口一雄が担ったメディアによる貢献も決して小さくはないと思う。
文楽のTBS(つまりは出口一雄)に対する感謝の心は、文楽がTBSを終生「うちの会社」と呼び、常に背広の襟に社員証を付けていたことに表れてはいないだろうか。
Suziさんは文楽と出口の関係を評して「まさに親子の間柄」と言っている。また、彼女は文楽についてこんなふうに語ってくれた。
「文楽さんは色男でした。落ち着いていてチョッとほかの噺家さんとは違っていましたね。 眉毛の長い人、って記憶が私にはあります。
彼の甘納豆を食べる時のあのしぐさと音のうまさは誰もマネができなかったんです。 大きい豆を食べる時、小さい豆を食べる時の所作のやり方、教えてあげようか?ッて言って私に教えてくれた記憶があります。
これは文字では書けません。伯父が文楽さんの帰った後、『弟子を取るのが嫌いな人が珍しいなあ、お前に教えるなんて』って笑ったのを覚えています。」
黒門町から『明烏』の甘納豆の食べ方を教えてもらう、なんて贅沢な経験なんだろう。羨ましくてため息が出る。
京須は前述の著作の中でこんなふうに書いている。
「そんな出口にとって黒門町―八代目桂文楽だけは例外だった。文楽への批判は許さなかった。文楽についての誤った、あるいは不十分な情報も認めなかった。桂文楽は彼にとって生涯、神様であったようだ。」
文楽にとっても出口は重要な人間であった。
川戸貞吉編『対談落語芸談』で五代目三遊亭圓楽は文楽を「たぐいまれな幸運児」とし、その根拠を次のように語っている。(以下圓楽の部分を抜粋引用する)
「まず出口さんというもっとも桂文楽を愛していた人を番頭さんにしたということね。これァもう番頭さんというよりブレーンですね。
それからTBSの専属だったということ。それがためにあの文楽師匠は、時間の制約がなく、気ままに出来たっていうことがあるでしょ、あの師匠に限っては。 おそらくねェ、どのネタでも、文楽師匠のはぴったり28分なんて、30分番組に寸法通りの噺はないですよ。みんな23分であったりね、21分であったり。20分デコボコが多いんですよ。そうすとね、あとどうするかというと、対談やなにやらで埋めて、そうして大事に使われたということですね。
そして季節感のある噺が多かったもんですから、夏ンなると『船徳』、『酢豆腐』、ね?冬ンなるとなにッていうふうに、ピシャアッと頭ンなかで全部出口さんが計算して、出してましたね。したがって、飽きも飽かれもしなかったということね。」
昭和20年代後半から30年代にかけて、文楽は昭和の名人への階段を駆け上ってゆく。芸術祭賞も紫綬褒章も、落語家初の栄誉に輝くのは文楽であった。安藤鶴夫や正岡容等の文筆による文楽礼賛がその後押しをしたのは間違いない。その一方で出口一雄が担ったメディアによる貢献も決して小さくはないと思う。
文楽のTBS(つまりは出口一雄)に対する感謝の心は、文楽がTBSを終生「うちの会社」と呼び、常に背広の襟に社員証を付けていたことに表れてはいないだろうか。
Suziさんは文楽と出口の関係を評して「まさに親子の間柄」と言っている。また、彼女は文楽についてこんなふうに語ってくれた。
「文楽さんは色男でした。落ち着いていてチョッとほかの噺家さんとは違っていましたね。 眉毛の長い人、って記憶が私にはあります。
彼の甘納豆を食べる時のあのしぐさと音のうまさは誰もマネができなかったんです。 大きい豆を食べる時、小さい豆を食べる時の所作のやり方、教えてあげようか?ッて言って私に教えてくれた記憶があります。
これは文字では書けません。伯父が文楽さんの帰った後、『弟子を取るのが嫌いな人が珍しいなあ、お前に教えるなんて』って笑ったのを覚えています。」
黒門町から『明烏』の甘納豆の食べ方を教えてもらう、なんて贅沢な経験なんだろう。羨ましくてため息が出る。
ちくま文庫『古典落語 文楽集』表紙。
イラストは和田誠。
こちらは朝日新聞社編『落語文化史』。
山藤章二描くところの志ん生・文楽。
2015年4月20日月曜日
出口一雄 ラジオ東京(TBS)時代①
出口一雄が落語界に残した最も大きな仕事といえば、ラジオ東京草創期に落語家専属制度を始めたことであろう。
昭和28年(1953年)、ラジオ東京は、八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・五代目柳家小さん・昔々亭桃太郎の5人の落語家と専属契約を結ぶ。
ラジオ東京設立が昭和26年(1951年)、Suziさんの言によると出口の入社は創立3年目。ということは、ラジオ東京入社早々、出口はこの大仕事を成し遂げたことになる。
京須偕充が『落語名人会夢の勢揃い』の中で書いているように、「これだけ無駄のない、密度の高い布陣を整えたことは、出口の炯眼、辣腕ぶりと彼へのはなし家の厚い信頼を物語っている」と言っていい。
これを皮切りに各ラジオ局が落語家の争奪戦を繰り広げる。
NHKは『とんち教室』レギュラーの六代目春風亭柳橋・三代目桂三木助、文化放送は八代目三笑亭可楽・五代目古今亭今輔、ニッポン放送は二代目三遊亭円歌を専属にし、社員だった円歌の息子に志ん生を引き抜かせた。(後にこの円歌の息子のもとに志ん生の長女は嫁ぐことになる。)
草創期の民放ラジオにとって落語放送は、演者一人で30分番組ができ、しかも安く上がる、まさにドル箱的存在であった。
とりわけ、専属制の先鞭をつけたラジオ東京の充実ぶりは素晴らしく、「ラクゴ東京」と異名を取るほどだった。
この専属制にはひとつ裏話が残っている。川戸貞吉編『対談落語芸談』という本の中で、元電通のプロデューサー小山観翁がこんな証言をしている。 (以下小山の部分を抜粋引用する。)
「(当時の電通の制作部長が)『噺家さんに会ってみたいが、食事に呼べるか?』と私にいうんで、『呼ぼうと思えば呼べますが、どういうふうにして呼ぶんですか?ッていったら『偉い人を全員集めて、私がご挨拶する』と。『食事の一席をかまえてくれないか』ッて。
で、『心得た』ッてんで私が各師匠に電話をかけて、ある料理屋さんでうちの部長を紹介する形で、一同に会して食事を出したン。
そうしたらばですねェ、『電通が専属を作って、みんなタレントを押えちゃうんだ』という噂が、そこから流れたわけです。
それでTBSがあわてて専属を作ったんです。」
出口一雄は小山をかわいがっていたようだ。
すぐ喧嘩腰になる出口が小山のいうことは聞く。これにはTBSでも電通でも不思議がったという。専属の落語家も地方局ならという条件付きで録音させてくれた。
のちに出口は小山に「『電通が全部噺家を押えちゃうんじゃ偉い事(こ)った』ということから、急遽専属という話ンなった。だから元はといえば、ゆさぶりは小山さんだから、しょうがないからあんたには専属の噺家を貸す」と言った。
あの戦後落語史上に残る大事件が、このような偶発的なきっかけで起こったとは何とも面白い。また出口の態度も義理堅いうえに、さっぱりとして潔い。
昭和28年(1953年)、ラジオ東京は、八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・五代目柳家小さん・昔々亭桃太郎の5人の落語家と専属契約を結ぶ。
ラジオ東京設立が昭和26年(1951年)、Suziさんの言によると出口の入社は創立3年目。ということは、ラジオ東京入社早々、出口はこの大仕事を成し遂げたことになる。
京須偕充が『落語名人会夢の勢揃い』の中で書いているように、「これだけ無駄のない、密度の高い布陣を整えたことは、出口の炯眼、辣腕ぶりと彼へのはなし家の厚い信頼を物語っている」と言っていい。
これを皮切りに各ラジオ局が落語家の争奪戦を繰り広げる。
NHKは『とんち教室』レギュラーの六代目春風亭柳橋・三代目桂三木助、文化放送は八代目三笑亭可楽・五代目古今亭今輔、ニッポン放送は二代目三遊亭円歌を専属にし、社員だった円歌の息子に志ん生を引き抜かせた。(後にこの円歌の息子のもとに志ん生の長女は嫁ぐことになる。)
草創期の民放ラジオにとって落語放送は、演者一人で30分番組ができ、しかも安く上がる、まさにドル箱的存在であった。
とりわけ、専属制の先鞭をつけたラジオ東京の充実ぶりは素晴らしく、「ラクゴ東京」と異名を取るほどだった。
この専属制にはひとつ裏話が残っている。川戸貞吉編『対談落語芸談』という本の中で、元電通のプロデューサー小山観翁がこんな証言をしている。 (以下小山の部分を抜粋引用する。)
「(当時の電通の制作部長が)『噺家さんに会ってみたいが、食事に呼べるか?』と私にいうんで、『呼ぼうと思えば呼べますが、どういうふうにして呼ぶんですか?ッていったら『偉い人を全員集めて、私がご挨拶する』と。『食事の一席をかまえてくれないか』ッて。
で、『心得た』ッてんで私が各師匠に電話をかけて、ある料理屋さんでうちの部長を紹介する形で、一同に会して食事を出したン。
そうしたらばですねェ、『電通が専属を作って、みんなタレントを押えちゃうんだ』という噂が、そこから流れたわけです。
それでTBSがあわてて専属を作ったんです。」
出口一雄は小山をかわいがっていたようだ。
すぐ喧嘩腰になる出口が小山のいうことは聞く。これにはTBSでも電通でも不思議がったという。専属の落語家も地方局ならという条件付きで録音させてくれた。
のちに出口は小山に「『電通が全部噺家を押えちゃうんじゃ偉い事(こ)った』ということから、急遽専属という話ンなった。だから元はといえば、ゆさぶりは小山さんだから、しょうがないからあんたには専属の噺家を貸す」と言った。
あの戦後落語史上に残る大事件が、このような偶発的なきっかけで起こったとは何とも面白い。また出口の態度も義理堅いうえに、さっぱりとして潔い。
柳家小さんがラジオ東京落語家専属制に関する思い出を綴った新聞記事。
(Suziさん提供)
2015年4月15日水曜日
汁物で飲む
さて酒のつまみで肝心なのは、水気である。
豆腐も刺身も水気のものだ。魚の干物だって焼けば、まるっきりぱさぱさしているわけじゃない。
では乾きものの立場はどうなるのか、との声が聞こえる。
だが、あれはむしろウィスキーとの相性が良い。ミックスナッツなどをぽりぽりやりながらウィスキーを口に含む、なんていうのはいいものだ。
いい酒でも、わずかに口中にべたつきは残る。それを水気が洗ってくれる。
水気のあるつまみはそこがいい。
ということは、究極を言うならば、それは「汁物」にとどめを刺す。
で、本題。 実は私、汁物で酒を飲むのが好きなのだ。
実際に酒のつまみを見渡してみよう。汁物の逸品が多いことに気づく。
おでん、煮込みなんか定番だな。鍋料理一般もそうだろう。
グレードを上げれば、松茸の土瓶蒸し。
粋にいくのであれば、蕎麦屋の裏メニュー、天抜き、鴨抜きといった類い。
具をつまみつつ盃を傾ける。汁を一口含むことで、口中にわずかに残る酒の甘味を消してくれる。それに、汁は腹にたまらないところが、またえらい。
桂文楽の『酢豆腐』ではないが、つまみは「腹にたまらなくて衛生にいい、他から見て体裁のいい」のがいちばんだ。(腹にたまるのは酒が進まなくっていけないねえ。)
となると、汁物、数ある酒のつまみの中でも最適に近いのではないだろうか。
余談だが、家の晩酌だと味噌汁がけっこういける。具だくさんのけんちん汁、豚汁は言うまでもない。蜆汁も肝臓に良さそうで、酒のつまみとしては理に適っている。ありふれたものでも、葱と豆腐(鍋物の具材としても定番ですな)の味噌汁、大根と油揚げの味噌汁七味唐辛子を振り掛て、などもお気に入り。
ま、酒のつまみとしては派手じゃないけど、私としちゃ側にいてくれるとほっとする存在なんだよね。
豆腐も刺身も水気のものだ。魚の干物だって焼けば、まるっきりぱさぱさしているわけじゃない。
では乾きものの立場はどうなるのか、との声が聞こえる。
だが、あれはむしろウィスキーとの相性が良い。ミックスナッツなどをぽりぽりやりながらウィスキーを口に含む、なんていうのはいいものだ。
いい酒でも、わずかに口中にべたつきは残る。それを水気が洗ってくれる。
水気のあるつまみはそこがいい。
ということは、究極を言うならば、それは「汁物」にとどめを刺す。
で、本題。 実は私、汁物で酒を飲むのが好きなのだ。
実際に酒のつまみを見渡してみよう。汁物の逸品が多いことに気づく。
おでん、煮込みなんか定番だな。鍋料理一般もそうだろう。
グレードを上げれば、松茸の土瓶蒸し。
粋にいくのであれば、蕎麦屋の裏メニュー、天抜き、鴨抜きといった類い。
具をつまみつつ盃を傾ける。汁を一口含むことで、口中にわずかに残る酒の甘味を消してくれる。それに、汁は腹にたまらないところが、またえらい。
桂文楽の『酢豆腐』ではないが、つまみは「腹にたまらなくて衛生にいい、他から見て体裁のいい」のがいちばんだ。(腹にたまるのは酒が進まなくっていけないねえ。)
となると、汁物、数ある酒のつまみの中でも最適に近いのではないだろうか。
余談だが、家の晩酌だと味噌汁がけっこういける。具だくさんのけんちん汁、豚汁は言うまでもない。蜆汁も肝臓に良さそうで、酒のつまみとしては理に適っている。ありふれたものでも、葱と豆腐(鍋物の具材としても定番ですな)の味噌汁、大根と油揚げの味噌汁七味唐辛子を振り掛て、などもお気に入り。
ま、酒のつまみとしては派手じゃないけど、私としちゃ側にいてくれるとほっとする存在なんだよね。
2015年4月12日日曜日
昨日の日記
朝はトースト、コーンスープ、スクランブルエッグ。
午前中は雨。
妻が出していた懸賞が当選。菊正宗特別純米樽酒が宅急便で届く。
しかも2本。妻よ、でかした。
昼はインスタントのとんこつラーメン。
午後になって雨が上がる。
タイヤのはき替え。
下の畑の桜が満開なので、写真を撮りに行く。
谷崎潤一郎『春琴抄』読了。
中山康樹『これがビートルズだ』再読。この人の文章を読むと、たとえ批判的な内容でも、無性にそれが聴きたくなる。正しい批評のあり方だと思う。中山氏は先日亡くなられた。『ディランを聴け!!』『ジョン・レノンを聴け!』も面白かった。氏の小気味よい文章が好きだった。合掌。
安西水丸『春はやて』再読。イラストレーター故安西水丸のマンガ。ひとつひとつのコマの完成度がすごい。もはや詩画集といっていいんじゃないか。
夕方は、フライビーンズ(空豆を揚げたの)でビール。
夕食は鳥の唐揚げ、冷奴、マカロニサラダで燗酒。
午前中は雨。
妻が出していた懸賞が当選。菊正宗特別純米樽酒が宅急便で届く。
しかも2本。妻よ、でかした。
昼はインスタントのとんこつラーメン。
午後になって雨が上がる。
タイヤのはき替え。
下の畑の桜が満開なので、写真を撮りに行く。
谷崎潤一郎『春琴抄』読了。
中山康樹『これがビートルズだ』再読。この人の文章を読むと、たとえ批判的な内容でも、無性にそれが聴きたくなる。正しい批評のあり方だと思う。中山氏は先日亡くなられた。『ディランを聴け!!』『ジョン・レノンを聴け!』も面白かった。氏の小気味よい文章が好きだった。合掌。
安西水丸『春はやて』再読。イラストレーター故安西水丸のマンガ。ひとつひとつのコマの完成度がすごい。もはや詩画集といっていいんじゃないか。
夕方は、フライビーンズ(空豆を揚げたの)でビール。
夕食は鳥の唐揚げ、冷奴、マカロニサラダで燗酒。
妻が当てた菊正宗特別純米樽酒。
下の畑の桜。
裏山のお稲荷様。
桜と入れ替わるように、柿の若葉が芽吹き出す。
2015年4月8日水曜日
笠間稲荷神社
門前町を歩く折は、まずその寺社に詣でるのが礼儀である。
この間笠間を歩いた時も、笠間稲荷神社に参詣した。
笠間稲荷神社。651年創建。
諸説あるが、伏見稲荷・祐徳稲荷と並んで日本三大稲荷と称せられる。
別名、胡桃下稲荷。古代この地が胡桃の密林だったことが由縁らしい。
それに因んでか、門前にあるキュートなお狐様が看板の店では、胡桃入り稲荷寿司を食べさせてくれる。
またの名を紋三郎稲荷。二代目三遊亭円歌が得意とした、落語「紋三郎稲荷」の題材にもなっている。
お稲荷様は、食を司る神様。五穀豊穣、商売繁盛などにご利益がある。そのため屋敷神として家々に祀られもする。
我が家でも裏山に小さなお社があり、初午には、親父が笠間にお参りに行く。
落語「明烏」でも、商家の若旦那、時次郎が、初午の日に差配人の稲荷祭りから帰ってくる場面が発端となっている。そういや時次郎のお父っつぁんは吉原のことを「よく流行るお稲荷様」とも言っていたね。
いずれにしても多く庶民の信仰を集めた神様なんでしょうな。
では、この間お参りした笠間稲荷神社の写真です。
楼門。
拝殿。
どちらも昭和30年代に再建された。
東門。
こちらは江戸時代の建造物。
屋根には見事な龍の彫り物。
この近くにあったお狐様は親子連れ。
落語「王子の狐」を連想させますなあ。
参道。
震災の被害か、あるべきはずの鳥居がない。
まだまだ復興の途上なのだ。
2015年4月7日火曜日
鉾田散歩
ちょっとだけ鉾田の街を散歩しました。
街中は、震災で取り壊しになった跡地に、なかなか新しい家が建たず、至る所に空き地が目立つようになってしまった。
あまり取りざたされないけど、鉾田もけっこうな被災地だったのだ。
お次は別の日の鉾田。この日はいい陽気。気持ちも明るくなるね。
鹿島鉄道鉾田線、鉾田駅跡。
地震でぐちゃぐちゃに崩れたホームしか、往時を偲ばせるものはない。
旧鉾田駅近くの、元ガソリンスタンドの廃墟。
この中華屋さんも営業はしていない。
小洒落た造りですな。
何のお店だったのでしょう。
トタンの風合いがシブい。
手前のスペースでは、クリスマスにイルミテーションをやる。
穴埋め問題みたいな看板。
営業をやめた建物が目立つ。
元は映画館。
よく見ると地震でけっこうやられてる。
街の中心を鉾田川が流れる。
もともと鉾田は舟運で栄えた町だった。
シブい壁面。
隣の家が取り壊されたので、こんな光景が見られるようになった。
元は洋品店。
側面が小洒落た感じ。
こちらのお店は現役。
ドライアイスのしろくまがかわいい。
街中は、震災で取り壊しになった跡地に、なかなか新しい家が建たず、至る所に空き地が目立つようになってしまった。
あまり取りざたされないけど、鉾田もけっこうな被災地だったのだ。
お次は別の日の鉾田。この日はいい陽気。気持ちも明るくなるね。
オロナインの琺瑯看板がシブい。
こういう洒落た洋館もある。
もとはパチンコ屋。何て店名だったんだろう。
最後に桜。
2015年4月5日日曜日
2015年4月4日土曜日
笠間 街撮り
日動美術館を見た後、少しだけ笠間の街を歩く。
古い街はいいねえ。
本当は食べたり飲んだりしながら、ゆっくりしたいんだけど、まいいか。
充分命の洗濯ができました。
では、笠間の街撮りです。
しぶいスナック見っけ。
営業はしているのでしょうか。
多少震災の影響が見られるけど、こういう建物が残っていてくれるとうれしい。
キュートなお狐様。
好きな建物。旧昭和館。
震災で随分やられたけど、まだ何とか残っている。
門前のお寿司屋さん。
こういう所の2階で宴会をやってみたい。
凛々しいお巫女さんがいた。
お饅頭屋さん。
笠間一の老舗旅館だった建物。
一度泊まっておきたかった。
モクレンかな。
この季節の好きな花だ。
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