今まで読んだ中で、いちばんのグルメ小説といえば、志賀直哉の『小僧の神様』だろう。
あそこに出て来る鮨は、マジ旨そうだ。
でも、だからといって、味や素材に対する微細な描写は、ほとんどないといっていい。
あくまで丁寧に周辺の情景が描かれるんだな。
秤屋の小僧が、番頭たちの世間話を聞いて、鮨に憧れを抱く。ある日お遣いの帰りに、思い切って鮨の屋台に入り恥をかく。たまたまそれを見ていた男が小僧に同情する。その男が子どもに秤を買ってやろうとし、偶然小僧の店を訪れる。男は小僧に秤を持たせ外に連れ出す。秤は別便で送らせ、小僧を鮨屋に連れて行き、心ゆくまで食べさせるよう手筈を整える。男は小僧を鮨屋に残し、名も告げずに帰ってしまう。小僧は、腹いっぱい鮨を喰い、男に感謝するが、男はどこか後ろめたい気持ちに苛まれる。小僧は、男を超自然的な存在なものとし、その後辛いことがあってもそれを支えに勤めに励んだ。(志賀は、「男が出鱈目に帳簿に書いた住所を頼りに、小僧が男のもとを訪ねて行ったところ、そこにはお稲荷さんの祠があるだけだった」という結末を構想してやめた、と小説の最後に書いている。)
あまりにも有名な小説だから、筋を追うまでもないだろうけど、念のため。
結局、その鮨の味は、銀座のどこが旨いとか、まぐろは赤身より中トロだとか、といったことで語られるものではない。あくまでその小僧の、かけがえのない体験からの旨さとして立ち上ってくる。
このような小説を読むと、テレビの食レポの、口に含むや否や、「うわっ!!」と絶叫し、のけぞった後、おもむろに微に入り細に渡り味を描写しようとする、定型化された表現が貧しく思えてきますな。
一方グルメ落語といえば、こちらは視覚聴覚に訴えるだけに数ありますが、私としては『青菜』にとどめをさす。
これも周辺の丁寧な描写が胆だ。
夏の昼下がり、廊下に腰を掛けながらの、植木屋と隠居との会話。庭木の青葉を通る風。鉢に氷を入れてその上に載せられた鯉の洗い。酒は柳蔭(焼酎を味醂で割ったもの)。
これは旨そうだよね。てか、絶対旨い。
五代目柳家小さん系統の噺もいいが、私は六代目、七代目の春風亭柳橋のが好き。六代目の駘蕩とした長者の風、七代目の品の良さ(あまり一般的に知られていなかったのが惜しまれる)、いいのよこれが。
これもやはり銘柄や産地といったものに左右されない旨さだよね。
旨いものは、どこそこのもんじゃなきゃだめとかいう閉じたものではない。各人にとって、かけがえのない体験をもってもたらされるものだし、たとえ実体験が伴わなくても、優れた芸はそれを伝えてくれる。
そういう幸せを、ずっとずっと感じていきたいもんじゃないですか、ねえ。
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