三代目三遊亭圓歌は、最近刊行された著書『三遊亭圓歌ひとり語り』の中で、こんなエピソードを紹介している。
圓歌は前名の歌奴時代から売れっ子だった。当時、彼は師匠二代目円歌の息子が経営する、暁プロダクションに所属していた。師匠円歌の死後、ちょっとした諍いがあって歌奴は暁プロを辞める。しかし、事務所を辞めたからといってそれを公表したわけではない。1年先まで仕事は入っている。結局、その仕事のギャラは全て暁プロに入り、歌奴は1年以上もただ働きをさせられることになった。
そんな時、出口が歌奴に声を掛ける。
「おまえ、正月よ、5日間だけ名古屋の大須演芸場、入ってくんねえか」
出口は、あの三遊亭圓生と同じギャラで、歌奴を大須へ売り込んでくれたのだ。
この興行は昼夜3回やって超満員という大盛況。しかも、ちょうど名古屋のキャバレーに出ていた柳家三亀松に誘われて、そこでさらに稼いだ。
名古屋からの帰りがけ、出口がくれたギャラが思いのほか多く、「悪いから、半分で」と歌奴が言うと、出口は「いいんだよ、俺もそれぐらい儲けてるから」と答えたという。
この、デグチプロの仕事をやったおかげで、「歌奴は本当にフリーになった」ということが、ようやく世間で認められ、これ以後暁プロにギャラが流れることはなくなった。
「出口さんって人は、私にすりゃ、すごい恩人」と言う圓歌の言葉に嘘はあるまい。
こんな話もある。これは大西信行の『落語無頼語録』から。
三代目三遊亭金馬が亡くなった後、大西と『話の特集』編集部の竹西悦子が夫人を訪ねた。
その時、夫人は自分の指に光る指輪を見せてこんな話をしたという。
大西の文章を引用する。
「おとうさんの稼いだお金だからおとうさんが使って行ってくれたらそれでいいと、おかみさんは考えていた。もう見栄を張ることもないんだし…と。ところが病院に見舞いに来てくれたデグチ・プロの出口さんが、おかみさんの指に指輪のないのに気づいて、お金のことを心配してくれた。ありがたいと思った。そして同時に、人さまに心配かけたり同情されたりしないように生きていかなければならないのだと悟った。
『だから、いい年をしてこんな、指輪をはめたりしてるんですよ…』
と、指輪をはめた細い指を、もうひとつの掌できまり悪げにさすって、おかみさんはぼくに言った。」
この出口の細やかな気配りを見よ。人生の修羅場をくぐらないとこういう所に目は届かないだろう。
前述の京須の著作からのエピソード。
七代目橘家圓太郎にCMの仕事が入った。色川武大が「昭和20年代から30年代は落語の黄金時代と言われて、顔ぶれもまことに充実していたが、その下にかくれてぱっとしないオールドタイマーも多かった」と言って列挙した中の一人、といえばその人となりが想像できるだろうか。
圓太郎についたギャラが10万円。相場としてはかなり安い。しかし、圓太郎は大喜びで引き受けた。
出口は言う。「おれの会社の仕事だから1割の1万円はとらなくちゃアいけないんだがな、やめた。そんな圓太郎から札1枚取れるかい。10万、耳を揃えて渡してやった。こっちは素通しだ。」
しかも製作会社からは1ヶ月後銀行振り込みで支払われるという。圓太郎にその理屈は通じない。出口は、その場でポケットマネーで立て替えてやった。
ちょっと調べただけで、こんな話がざくざく出て来る。
京須は「デグチ・プロを蔭で鬼プロというひとがいた。結構流布していた渾名だから、出口さん自身も承知していたかも知れない」と書いている。そして、その由来を出口の無愛想・強面にあるのではないかと推測している。
しかし、多分それは芸人を買う側の印象なのだと思う。三遊亭圓歌によると、芸人の間で当時の芸能プロは、「鬼の暁、仏の出口、不渡り出すのが新芸能」と評されていたという。外見に惑わされない、出口の人間性がよく出た言葉である。
出口一雄を本当に分かっていたのは、一緒に仕事をした芸人たちだった。出口は誰よりも芸人たちに寄り添い、芸人たちのためにという視点で仕事をした。
芸能プロというのは、全てにおいて金が絡む業種だけに、仕事にはその人の人間性が出る。出口一雄という人は、つまり、こういう人だったのだ。
デグチ・プロ編の稿終わり。
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