出口一雄のことに興味があって、調べてみたのだが、あんまり資料がないのね。
結局、ネットで拾えたのが、京須偕充の『みんな芸の虫』(青蛙房)の中の「出口一雄―鬼の眼に涙」だけ。早速、アマゾンで買って読んだけど、これがよかった。
桂文楽関係の本を読むと、出口のことは断片的に出てくるが、出口を主役に据えた文章は、おそらくこれだけではないだろうか。
出口一雄。ラジオ東京のプロデューサー。
昭和28年、ラジオ東京(後のTBS)は、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、昔々亭桃太郎と専属契約を結ぶ。この、落語家の生活を向上させ、落語という芸を全国区にしたきっかけとなった出来事に、大きく関わった人だ。
昭和43年に会社を定年になって後は、デグチプロを設立、落語家のマネジメントをした。新富町に事務所を構え、その仕事は、ビジネスライクとは無縁の、とりわけ芸人に寄り添ったものであったという。
古今亭志ん生は契約した翌年、娘が勤めていたニッポン放送に移籍し、三遊亭圓生は、後年、NHKにも出演することを承諾させ、専属契約は形骸化したが、桂文楽は頑としてTBSにしか出演しなかった。文楽は平素洋装を好んだが、その背広の襟には常にTBSの社員章が付けてあったという。TBSというよりは、むしろ出口一雄その人に対する厚い信任を示したものだろう。事実、文楽は極めて私的な事についてまで出口に相談したという。出口もまた、文楽に心酔し、文楽を支えた。
大西信行の『落語無頼語録』(角川文庫)に収められた「桂文楽の死」という文章の中で、出口は次のように描かれる。
まずは文楽最後の高座、文楽が絶句して客に詫び、舞台の袖に下がった場面。
「そこには出口マネージャーが顔をこわばらせて立っていた。文楽が袖幕の蔭へ体を運んで来るのが待ちきれない様子で、両手をさしのべて文楽を抱いた。
『出口君、ぼくは三代目になっちゃったよ。』
文楽が言って、我慢しきれずに出口マネージャーは泣いてしまった。」
そして、文楽の通夜の場面。
「『とても見ちゃいられなかった―』
黒門会館の広間のいちばん奥でコップの酒を顔をしかめて飲みながら出口マネージャーが言うのを、そうだろうな、さぞせつないことだったろうとぼくはうなずいていた。まだラジオ東京といっていたころのTBSで、文楽たちと契約を結び、民放の落語専属制度を確立させたのが出口マネージャーだった。定年でTBSを辞めてプロダクションをはじめてからも、いまの親と子の間ではとても見られぬこまやかな情愛で文楽の面倒を見続けて来た人だったから、もし文楽が命を終えていなかったら出口マネージャーの方がせつなさのあまり死んでしまったかも知れないと思った。」
いいよな。二人の深く信頼し合っていたことが、ひしひしと感じられる。
京須の文章まで行き着かなかった。次回に続きます。
3 件のコメント:
出口一雄の姪が私です。丁度今度9月末に日本に行きます。何かご質問があれば何なりと・・・おじはそれなりに落語研究会には無くてはならない存在の人でしたし、デグチプロも持っていました。ある日脳いっ血で倒れそれっきり逝きました。私は落語が好きで写真大の卒業作品は落語家の三遊亭小園朝。伯父の所にはしょっちゅう出入りしていたので色々なことを覚えています。文楽さん、しん生さん、金馬、小さん、懐かしい名前です。志ん生とは独り者の時から伯父と父は繋がっています。私が覚えている限り、この間なくなった園楽は二つ目なんですから・・・ご質問あればsuzileavens@gmal.com
へどうぞ、ロス在38年で、日本へ到着は今回は9月26日です。知っている限りのことはお話しますよ
コメントを投稿