三代目三遊亭小圓朝、本名芳村幸太郎。三遊派の頭取だった二代目小圓朝を父に持つ。祖父は名人三遊亭圓朝の兄弟子だった。三代の落語家である。明治25年生まれとあるから、八代目桂文楽と同い年だ。(文楽も同じ三遊派だったが、こちらは大阪から呼ばれた初代桂小南の弟子だから、落語家のスタートとしては、天と地との開きがあった。)
子どもの頃、名人圓朝から「この子は噺家に向いているね」と言われ、四代目橘家圓喬の未亡人からは「圓喬の名前をあげるよ」と言われたという逸話を持っている。『後生鰻』や『千早振る』などの音源を聞くと、なるほど、SPレコードに残された圓喬の語り口に似ている。
大正6年、橘家圓之助で真打昇進。大正11年には、三遊派でも由緒ある名跡、三遊亭圓橘の四代目を襲名、昭和2年には父の跡をついで三代目三遊亭小圓朝を襲名した。
本格派で、江戸前で、将来を嘱望されたが、売れなかった。多分、文楽・志ん生のような「新しさ」が小圓朝にはなかったのだろう。昭和42年に脳溢血で倒れ、以後高座に復帰することなく昭和48年に亡くなった。 東大落語研究会の技術顧問を長く務め、谷中初音町に住んだことから「初音町の師匠」と慕われた。
Suziさんが撮影した小圓朝の写真は2枚。煙草を手に持って笑顔を見せているものと、小圓朝夫婦が自宅の縁側に腰を掛けているところ。いかにも明治生まれの芸人らしい、いい顔をしている。
彼女は、これが大学の卒業制作だと言っていた。どのような経緯で撮影となったのか、興味深いところだ。(もしかしたら、彼女の伯父出口一雄も一枚噛んでいるかもしれない)
Suziさんは次のように語ってくれた。
「伯父からある日話が来ました。
『お前なあ落語家の写真を撮る気はないか?』
いい案なのは百も承知。自分の置かれている素晴らしい環境もわかる。でもあまり乗り気ではなかったんです。理由は簡単、私はポートレートが苦手なんです。特に若い女性のなんて授業でやらされるけど大嫌いでした。
一方で落語家さんはやってみたいな、という気はありました。しかし当時の私は造形写真に凝っていて、夢中でした。これぞ写真アート!なんて夢中でしたので、これに時間を割いてしまって。今考えると、宝の山をみすみす捨てていたようなものです。だから撮っていないんです。馬鹿な事をしました。若かったんですねえ。
それでも卒業作品制作時期になり、俄かに撮ってみたくなりました。円生さんをちょっと考えたけど、何となく好きになれないムードの人で。そこで伯父に相談しました。
『お前なあ、小圓朝がいいぞ。売れてはいない地味な落語家だけど、あの顔はいいぞ。それになあ、撮って残してやってくれ』と言われました。」
やはり出口一雄が絡んでいたか。それにしても小圓朝を「撮って残してやってくれ」というのはいい。いかにも芸人に寄り添う出口らしいもの言いだ。しかも小圓朝。選択に間違いがない。改めて出口一雄という人の眼の確かさに感じ入る。
こうしてSuziさんは谷中初音町の小圓朝宅を訪れた。
「谷中の細い路地を入って行き、格子戸を開けると玄関。右側が縁側で小さな庭がありました。 小圓朝さんは小柄な目立たない本当に地味な人でした。いつも着物の人で、洋服を着たのを見たことはありません。奥さん手作りの巾着に扇子や手ぬぐいを入れて、飄々と谷中の路地を歩いていました。
奥さんも着物ばっかり。静かな声の太いしゃべり方で、その辺にいるおかみさん。人柄が本当にいいお二人なんです。なんだかホッとする雰囲気の、まさにお人好し夫婦でした。伺うと、お菓子とお茶を出して下さって。
でも、師匠は結構忙しいんです。ひっきりなしに次から次へと若手の落語家連中が来るんです。落語を習いに来るんです。小圓朝さんという方は、当時落語界では右に出る人がいない、というネタ持ちの人でした。あらゆる師匠の弟子さんが自分の師匠に言われて小圓朝さんのところに来る、そんな人でした。縁側に面した6畳か8畳間の部屋に入り習っている声が聞こえます。その間は撮影が出来ないので、奥さんとお菓子をいただきながら、お茶飲んで話します。話をしていてホッとする人でした。」
平凡社から出た『古今東西落語家事典』の中に、小圓朝について次のような記述がある。
「骨格がしっかりしているだけに稽古台としてうってつけであり、多くの噺家が稽古に来たばかりでなく、東大落語研究会の学生の実技指導を長年行なって、プロよりも優先して稽古をつけてもらった東大生は百人にもなる。」
Suziさんの描くそのままである。
三代目小圓朝の実父、二代目小圓朝。
八代目桂文楽が初代桂小南に入門した当時、三遊派の頭取だった。
五代目古今亭志ん生の最初の師匠でもある。
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