「子供のいないご夫婦で家は古い家でしたが、いつもきれいできちんと掃除がされていて静かです。畳の目まできちんと掃除されている、という感じでした。でもきれい過ぎて冷たいんじゃないんです。暖かいお宅でした。谷中の、昼間でも静かなたたずまいの住宅地でした。私は隅田川の橋を撮りまくり、造形写真にのめりこんで落語家の顔写真撮影に気分を切り替えるのは大変でしたが、師匠のお宅に来るとホッとするんです。そんな気分にさせてくれるお宅でした。」
明治生まれの芸人の家らしい、手入れの行き届いた様子を彷彿とさせる。
文楽の黒門町の家も、きれいに磨きぬかれていた。ある時弟子入り志願の若者が来て、文楽の居間に通され、そのあまりの掃除の行き届き具合に恐れをなし(弟子入りすればその掃除を自分がやることになる)、隙を見て逃げ出したという話がある。
「小圓朝さんは派手さのある人ではなく、そういう点では落語家には全く向いてない人で、何か黙々と仕事に打ち込む無口な職人さんのような人でした。下町の伝統の小物細工の職人になったら良かったんじゃないのかなあ、なんて思ったくらいです。
文楽さんのような色男でも,金馬のような甲高い声でコマッシャクレた子供の声をやらせたらピカ一、って特徴もない。円生師匠のような、ちょっと神経質だけどスラッとした男前の着物が似合うという人では絶対にないタイプです。志ん生さんのような酔っ払って高座に上がるなんてハチャメチャなんかからは程遠い地味な地味な人です。
酒も飲まない人でした。一対一の座談ではおかしな事も言うし楽しい人なのですが、いつも笑っていて陽気な人、華のあるタイプではありません。絶対に目立たない人でした。だから彼の一番の当たりの噺は『あくび指南』。あのボーっとした、なんとはないモーッとした雰囲気が向いていたんです。
私はお弟子さん方が習いに来るその部屋で小圓朝さんをフラッシュをたかずに撮りまくりました。 タバコ好きな方でした。後方に唐紙の線の入るのがどうしても気になるのですが部屋の構造上どうにもならなくて取り除けず、写真選考5回の規定の4回目でやっとパスしました。」
小圓朝の人柄をよく伝えてくれる。小圓朝が、その実力を認められながら売れなかった理由、そして、多くの人に慕われた理由が、このSuziさんの話からよく分かる。
「卒業写真は違う分野から2点、と決まっています。もう一つの卒業写真は勿論造形写真で清洲の当時開発途中のあのだだっ広い地面の水溜りが干上がり割れ目の入った地面を写し、フィルムの反転処理を何回かして作り上げて、ハイコントラストの反転写真(ネガ仕上がり)を焼き付け、それを真っ赤な染め粉で染め上げて作りました。教授は発想と色合いにびっくりし、これは1回でパスしました。
何とも現実は皮肉なことです。少し説明しますと当時の東雲、清洲なんてところは今とは全く違います。行けども行けどもだだっ広い平地があるだけ。陽の光がまぶしく、人っ子一人いない、なんてことがよくありました。『東京の地の果て』みたいな広い広い場所でした。空は高く、東京にいてこんな開放感に浸れる場所はなかったですね。そんな記憶しか私にはありません。
今の清洲も東雲も私は知りません。帰国しても浦島花子。友人達は改札口で会うのではなく。車両の何処に乗り、下りたところで待て、と指示される私になっています。
ロスは広いです。でもだだっ広くて田舎です。東京はロスより狭いかもしれません。でも東京は上にも下にも広がり巨大な大都会なのです。そして美しく、清潔で治安は良く、世界一の町です。駅のスピーカーからこんな言葉が流れます。
『次の電車は予定より1分遅れて到着いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
そんな国が世界中の何処にあるでしょうか?ありませんよ。
『タクシーに***百万円忘れた!』と青い顔して交番に飛び込む酔っ払った客。でも、すぐ運ちゃんが届けてくれる国。
夜遅く駅を降りて女が一人で家まで歩いて帰れる国。そんな国は何処にもありません。
日本は世界一の国です。私は日本に生まれ日本人として育ち、江戸っ子気質の親父と、山の手の軍人の娘として育った品良い母を持ったことを誇りに思います。そしてその運の良さに感謝します。私が米国市民権を取ったとき主人は本当に喜んでくれました。しかしこうも言われたのです。
『ミドルネームに出口と言う苗字を入れてくれたことに感謝するよ(主人は私のラストネームが妙に気に入っていました)。でもなあ、市民権を取ってアメリカンになったってSuzi はSuziなんだ。日本人の誇りは一生涯持ち続けていてほしい。俺にとってお前さんがナニ人だってそんなことはいいんだ。ただ俺が惚れた女、それで十分。それに義母さんは大好きな人だしね』
そういってアメリカンになったことの祝いの夕食をしました。今こんな事を書いているとあっちの上のほうから見ていてきっとこう言うでしょう。
『ずいぶん昔の話だなあ』
この間ふっと思い出して自分の年を考え、そして驚き、駄作川柳が浮かびました。
気が付けば亡夫の年より上になり
私は今73才です。主人は19年前71歳で向こうの岸に逝きました。
また、こんな句も作りました。
早く来い此処は静かで良いところ(亡夫)
私は答えます。
まだ行かぬ土産話がちと足りぬ
そのうちいつか向こう岸へ行けたなら、主人に、両親に、義両親に、伯父に、そして小圓朝さんにも奥さんにも会えることでしょう。そしたらこう言いたいですね。 『デジタルカメラの時代になりました。あの後ろに在った、消すのに困った唐紙の線も簡単に取り除き、あの時よりもっとマシな写真を作りますからね』ってね。」
小圓朝のことを知る人も、今は少なくなった。今回は貴重なお話を伺う機会を持てて嬉しかった。Suziさんに改めて感謝申し上げたい。ありがとうございます。
前述のとおり、小圓朝は昭和42年、脳溢血で倒れた。青蛙房から『三遊亭小圓朝集』が出たのは、昭和44年。そこにSuziさん撮影の写真も掲載された。
小圓朝は、昭和48年7月11日、高座に復帰することなく没した。「小圓朝を撮って残しておいてやってくれ」と言った出口さん。撮影したSuziさん。お二人とも本当にいい仕事をしてくれたと思う。
「三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん」の稿、終わり
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