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2016年8月30日火曜日

夏の思い出

明日で8月も終わりかあ。
行く夏を惜しんで、ちょっとばかり今年の夏を振り返ってみましょうかね。

満開の山百合。

玉造を歩いた時。
町外れにあった古い旅館。

看板がいいねえ。

入り口はこんな感じ。



牛久かっぱ祭。

見づらいけど、牛久沼の鰻ですな。

南武線尻手駅。

祖師ヶ谷大蔵、ウルトラマン商店街のゾフィーアーチ。

池袋西口。好きな一角。

向島辺り。

東京スカイツリーから東武電車の線路を見下ろす。

東京スカイツリーから押上の街。
十間川は『怪談乳房榎』の舞台の一つ。

深川の辺りでしょうか。

迎え盆。

百日紅の花。






2016年8月27日土曜日

三叉路特集 その2

三叉路の写真が増えたので、アップします。

鉾田。

上野、下谷の辺りかな。
正確には四差路か五差路でしょうが。

向島。

川崎。尻手駅近く。

川崎。平間。

川崎市登戸から向ヶ丘遊園の間。

同じく。

向ヶ丘遊園。

経堂。

豪徳寺。

石岡。国道355号線。

土浦。ちょっと昔。

同じとこ。現在。



川崎。ちょっと昔。

同じとこです。

需要はあまりないかもしれないけどね。
私の趣味ということで。

2016年8月25日木曜日

小泉今日子『黄色いマンション 黒い猫』

小泉今日子が50歳になった。というので、かどうかは知らないが、いくつかの雑誌で彼女の特集が組まれ、それがなかなかの売れ行きだという。ちょっとした「キョンキョンブーム」なのか。
実は私、昭和の時代からの小泉今日子ファンなのである。ファンといっても、ハチマキ締めてペンライト持ってハッピ来て「キョンキョーン」なんてやってた訳ではない。改めて振り返ってみると、疑似恋愛の対象だった訳でもないなあ。正確に言えば、彼女は私にとって「尊敬する人物」だったのかもしれない。彼女は若い頃から、ずっとキュートでとんがっててカッコよかったけど、どこか冒し難い気高さがあったような気がする。
それは今回、彼女のエッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』を読むに至って確信となった。 

この本は、雑誌『SWICH』に連載された「原宿百景」という文章に、描き下ろしエッセイ1編を加えてまとめられたものである。彼女が青春時代を過ごした原宿の街、出身地神奈川県厚木での思い出、様々な人との出会いと別れ等が、瑞々しい感性で綴られる。特に大切な者たちとの永遠の別れが印象的だ。幼なじみ、後輩アイドル、愛猫、父、姉、仕事仲間・・・。彼女の死者に対する眼差しは優しい。優しくて悲しい、それでいて奥の方からじわっと元気が出てくる文章である。
それにしても小泉今日子の、何と聡明で繊細で健気で魅力的であることよ。しかもしっかり背筋が伸びて腹が据わっている、潔い。それは「16歳の時から大人たちの中でたった一人で闘って来た」という矜持によるのではないかと私は思う。
アイドルになり高校を中退、10代で社会人となって常人では味わえないような体験をした。一方で本当にたくさんの本を読んだと彼女は言う。小泉今日子は自分の力で自分だけの言葉を獲得していったのだ。

「はじめに」という文章で、小泉今日子はこの本を寿司になぞらえてこう書いている。「できるだけ鮮度のいいネタを握りたいと、一見さんお断りのお寿司屋さんみたいな気持ちで書きました。なんでお寿司屋さんに喩えたのか自分でもわからないけれど、江戸っ子みたいにパクッと一口で食べてください。いや、読んでください。」
丹念に仕事をした、生きのいいいネタが揃う。しかも供されるのは小泉今日子にしか握れないモノだ。たまんないな。34編、大切に読んだ。贅沢な時間を過ごさせていただきました。

2016年8月20日土曜日

出口一雄の死

そろそろ出口一雄の死について語らなければならない。
出口の最期については、京須偕充もほとんど書いていない。
『鬼の眼に涙』では最後に「昭和51年2月の寒い朝、出口さんは事務所で斃れたのである。」とあるだけだ。
『落語名人会夢の勢揃い』ではもう少し長い。「出口一雄は桂文楽没後5年足らずの1976(昭和51)年初めに急死した。下谷の寺で営まれた通夜の席には多くのはなし家が集って陽気に酒を飲んで騒いだ。葬儀には六代目春風亭柳橋も圓生も参列していたが、思えばこの人たちに残された月日も短いものだった。」と書いている。

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出口一雄は、昭和51年2月15日、68歳で亡くなった。(この日付を、私は出口の姪、Suziさんに教えてもらった) 亡くなった時のことをSuziさんに訊いた。
Suziさんは次のように語った。

「死亡時の話なのですが本当にチョコッとしか知らないんです。誰か落語家サンに仕事のスケジュールの事で電話をしているうちに倒れたんです。突然応答がなくなり、その芸人さんはビックリして、・・・。倒れてから救急段階まではちょっと間はかかったと思います。(電話の相手の芸人さんは、私は知りません。) 『倒れた』と連絡が入り、父は飛んでいきました。
帰宅するなり、『あいつは死ぬぞ。持たん』怒ったような調子で父は言いました。 そして、私は次の日父に連れられて病院へいきました。弟や母は自宅に居ていきませんでした。妹はもう結婚していましたので子供の世話で忙しい生活でした。
父の言葉通り、2日後(3日目だったかな)、ぐうぐう高いびきで寝て、そのまま逝きました。
叔母はショックで、どうしてよいか分からずうろたえていました。
叔母の妹の旦那さんが細々とした用事に走り回り、叔母の姉や一番下の妹達が彼女を支えていました。
前々から父は『兄貴、少し飲むのも食うのも考えろ』と言ってはいましたが、聞く耳など持たぬ伯父でした。(医者の父は伯父に会うときは、必ず聴診器と血圧計を持って会いに行っていました。喧嘩ばっかりするそう仲の良い兄弟ではなかったですが、其処は兄弟、伯父も『こいつは医者としちゃ兄貴の俺が言うにゃなんだけど、腕はいい。だけど金儲けはゼロ』と言って信頼していました。だから多くの芸人さんを父のところに送ったんだと思います。親父の自慢をするなら、オセイジは言わない、金の事より、喧嘩しても患者にはズバリとモノを言っていた良き親父で、医者でした)
『何言ったって文楽さんが逝っちゃってからは聞こうとしなかったからなあ』そんなことも父は言っていました。全くのメチャクチャでした。そしてこんな結末を迎えたのです。」

本当に突然、出口一雄は逝った。状況を見ると脳溢血らしい。血圧はもともと高かったのだろう。しかも出口は文楽の死後、昼から酒を飲むようになった。それが寿命を縮めたのは明白である。Suziさんの父上の「何言ったって文楽さんが逝っちゃってからは聞こうとしなかったからなあ」という言葉は重い。
大西信行は、最後の高座で絶句し、その半年後に死んだ文楽にことを「あれは自殺だったのではないか」と書いている。表面上は病死でも、既に生きる意志を失っていたという意味において、大西は「自殺」という言葉を使った。ならば出口の死も同様ではなかったか。出口一雄は、文楽の後を追ったのだ。

 Suziさんは出口の葬儀についても話してくれた。

「浅草の遠縁の善照寺で執り行いました。300人だか500人だかの方々が来てくださったと聞いていますが、よく解りません。
兎に角花輪だらけで、それで大変なことが起きました。当時牧伸二は人気絶頂期でした。泉ピン子は彼の弟子でした。彼女はウイークエンダーのレポーターの一人で、あの話しっぷりで、少しずつ知られるようになってきた頃でした。しかし、牧伸二は彼女の師匠で人気も格も雲泥の差。そのピン子の花輪がとんでもない上段に置いてある。これから葬儀の読経って時に見つかったんです。それがドカンと上段も上段に飾られてあるんです。芸人社会ってのは、上下の差は天と地の差。大変だーー!!と降ろすことに。しかし、花輪、花輪のスタンド、花束、本堂の階段、周囲も花輪だらけでびっしりの飾り付けです。はずすだけで一苦労。それを又降ろすのに一大作業。若い二つ目サンくらいの落語家連中が必死の作業で頑張りました。そして何分か予定より遅れて、やっとこ読経が始まったのを覚えています。
親戚は控え室からあまり出ないように、なんて言われていましたから、控え室の障子を開けて、ちょっとのぞき、私は怒られました。何にでも興味がある子でしたから、それも30を超えていた私でしたが、しきたりなんて全く眼中に無く、思うがままに興味本位で見てしまう。それは70を超えたこの歳の今も、恥ずかしながら変わっていません。
そのときの記憶では、本堂の階段は全く見えず、花の壁だけだったしか記憶がありません。それほど大きな葬儀でした。まさに、【デグチ天皇】、って怖がられもしたけど芸人に沿った江戸っ子らしいぶっきらぼうな温かさを持った伯父の葬儀でした。」 

京須は「下谷の寺」と書いているが、Suziさんの記述が正しいだろう。何といっても浅草の善照寺は出口家の菩提寺である。
TBSの大物プロデューサーとして演芸界に大きな影響力を持ち、退社後はデグチプロ代表として芸人のマネジメントに尽くした人だ。その葬儀がいかに盛大だったかは容易に想像できる。ばたばたした葬儀直前のエピソードも、いかにも芸能界らしい。 

「亡くなってからの話の方が面白いのでそれを書くことにします。
叔母が言うんです。
伯父も正式に結婚したのだけで3回。その間に何人もの女の人が入れ替わり立ち代り、でした。 まともな結婚式の写真は過去に於いてお送りした最初の奥さん(柳橋の芸者)とのだけじゃないでしょうか。いつも『こいつだ』と紹介したら、それは結婚していること、でした。
『デグチプロの事だけど・・・これはまあいいんだけど・・・即刻何かもらうのはやめて、しばらく待とうと思うのよ・・・』という、叔母も心得ていての提案でした。
『三亀松さんは亡くなったら、9人子供が出てきたのよ』と話が続きます。
父も『義姉さん、それもそうだなあ・・・と答えるしかなかったよ、あの時は・・・』と後になって父が教えてくれました。
それから6ヶ月くらい何の手続きもとらず待ちました。誰一人として、伯父の子だと名乗り出るとか、『この子が出口一雄の子です』と連れて現れるとかということはありませんでした。
父は冗談交じりに言いました。
『全く兄貴は何人女と遊んだか知れねえが、下手糞な鉄砲打ちだよなあ。一人も出て来ねえじゃねえか!』
母も、『あらまあ!伯父さんは当たりが悪かったんですねえ、ホホホ』と手を口に当てて笑ったのを覚えています。」 

出口の隠し子が現れるのを見越して、遺産の整理を待つ話。
出口夫人も腹が据わってるし、Suziさんのご両親の言も面白い。さばさばしていい。

出口一雄は明治40年4月8日に生まれ、昭和51年2月15日に亡くなった。お釈迦様と同じ日に生まれ、同じ日に死んだ。
それについて、Suziさんはこんなエピソードを紹介してくれた。

「住職の厚さん(親戚だからもうそう呼んでます)がこう言い出したんです。葬式の段取りの日だったと思うんです。だから葬式より何日か前の話です。いつも私達は親戚ということもあり、お寺の自宅のほうで話をします。
厚さんが言うんです。
『大きい兄さん(伯父の事)の事って、親戚だから気にもしなかったけどねえ、小さい兄さん(私の父)。驚きだよ。4月8日生まれだろ。(花祭りの日、つまりお釈迦様の誕生日と一緒)あのね、2月15日ってのは釈迦の涅槃の日だよ』
『本当か?あんな女遊びして勝手なことしてきた兄貴がか?お釈迦さんも計算違いの日にあっちに逝かせたもんだ』と父も驚いています。
私とて30の女です。
『伯父さんてサア、運がいいというか・・・お釈迦様でも手に余る、か?ちょっと羨ましかったんじゃないの、お釈迦さんも男だもん』
こんな話を住職と話しちゃう。
考えてみりゃ型破りな環境で私は育ちました。今思うととっても幸せな環境に育ったと思います。母は山の手の近衛兵の娘。父は浅草生まれのべらんめえ医者。叔母は商人の家に嫁ぎ、伯父は芸能関係。これだけ多くの生活社会を子供のときから見られて来たのは、ラッキーとしか言いようがありません。」

強面で無愛想な人柄から、彼は一部の人から「鬼の出口」と呼ばれたという。しかし、こうして彼の生涯を辿ってみると、実はその誕生日、命日にふさわしい「仏の出口」だったのではないかと思う。
 出口は若い才能を見出し世に出すことはしても、「干す」ことはしなかった。昨今の芸能プロダクションのあれやこれやを目にするにつけ、出口の仕事ぶりがいかに芸人たちに寄り添うものだったかが分かる。 

出口自身は自分のことについて何も世に残さず、あっさりと去って行った。ここで、ささやかではあるが、出口一雄の人となりを紹介できたことを誇りに思う。これも出口の姪Suziさんとの出会いのおかげである。彼女には貴重なお話に加え、写真等様々な資料をご提供いただいた。心より感謝します。ありがとうございました。

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ではSuziさんから。
「私からもdensuke様にそしてこれを読んでくださった方々に、心より感謝いたします。私もナントカ書きたかったからです。 でもあの世の伯父は言うでしょう。 『ばかやろう。言わねえでもイイコト言いがって』ってね。」

2016年8月16日火曜日

東京スカイツリーに行く

お盆前に休みを取って、妻子を連れて東京スカイツリーに行って来た。
今年は1泊旅行はできないので、その代わりに1日どこかで遠出をしようということになっていたのだ。
東京スカイツリーには、妻と長男が1度、小学校の行事で行ったことがある。この時、妻がこの行事の委員をやっていて、自分ではちっとも楽しめなかったと嘆いていた。
では、親子4人で改めていこうではないか。TXで行けば、電車好きの長男も喜ぶだろう。こんな感じで、家族会議でプレゼンしたところ、全員一致でスカイツリーに決まったのである。
さて、当日は現地での移動を考え、車で行くことにした。スカイツリーのチケットは、事前に妻がセブンイレブンで買っている。指定の10時30分に着くために、余裕をもって7時半過ぎには家を出た。
予想通り首都高に入ると渋滞していたが、10時前にはスカイツリーに到着。



時間までソラマチを見て回る。外国人観光客を意識した「和」のテイストの店が多い。食品サンプルの店には、ベーコンのしおりとかするめのキーホルダーとかがあって楽しかった。
いよいよ地上350メートルの天望デッキへ上がる。この時点で東京タワーの高さを優に凌ぐ。私は高いところは苦手だが、高いところからの眺めは好き。足元がしっかりしていればそれほど恐怖は感じない。眼下に東京下町の景色がばーんと広がる。いいねえ。うれしくなってばーしばし写真撮っちゃったよ。



せっかくだからと、別料金を払い、さらに100メール上の天空回廊に上る。

窓の外では窓拭き作業中。
これは私には無理。

最高到達点であります。

隅田川の眺め。
手前が桜橋。奥に白髭橋。

一回りして再び天望デッキへ。

ガラス張りの床。
これはちょっと怖い。

天空の風景を楽しみ、さてお昼である。
ソラマチのフードコートに行ってみるが、空席はない。上の階のレストラン街にでも行ってみるか、思っていると、カウンター席の焼きそば屋を見つけた。店名は「東京焼きそば」。ささっと店に入る。焼きそばをだし汁につけて食べるシステム。
妻と次男は塩とスダチの「白焼きそば」、私と長男はソースとごまの「黒焼きそば」を頼む。旨し。フードコートよりもよかったかもしれない。



満足満足で店を出て、次男リクエストのポケモンセンターに行く。子どもたちでいっぱい。次男はポケモンカードを買う。レアなカードが入っていたと言って大喜び。

もう1か所どこか行こう。これも子どもたちのリクエストに応えて、豊洲のららぽーとへ向かう。
ららぼーとでの子どもたちのお目当ては「妖怪ウォッチオフィシャルショップヨロズマート」。
私は本屋で、石川達三『生きている兵隊』、雑誌『MONKEY』、『SWICH―特集小泉今日子原宿プレイバック』を買う。
アイスクリームを食べて休憩。子どもたちを連れて外に出て、しばし海風に吹かれる。



東京ドライブも楽しかった。
また行きましょうね。

2016年8月13日土曜日

池袋演芸場 8月上席夜の部

入った時にはもう二つ目が上がっていた。客は5分の入り。
高座には三遊亭日るね。歌る多の弟子。ネタは『堀の内』。何か不思議な口調。「だいじょぶですか~」って、君が大丈夫か。上手くはないが癖になる。
調べてみたら、本名「日麻(ひま)」で前座名が「多ぼう」。なかなか洒落てる。2013年6月に二つ目に昇進し「歌も女」。で、半年後の12月に「日るね」に改めている。名前が気に入らなかったのか。二つ目で改名するのも珍しい。
金原亭龍馬、『町内の若い衆』。伯楽門下。2013年に真打。口調はさわやか。このネタは最近寄席でよくかかる。ウケるネタなんだろうね。どうしてもおかみさんが化け物になっちゃうのね。
ここで漫才。ホームラン。オリンピックネタ。といってもほとんどがわき毛の話。内村が金メダル取ったから、またこのネタが増えそうだなあ。
古今亭菊志んは『あくび指南』。ちょっと立川談志に似ているな。ネタがネタなだけに、次第に意識が遠ざかる。最初のあくびが出たところではっと目を覚ました。「あの辺のお客さんの寝息が・・・」と高座から言われちゃった。失礼しました。それ以降は、ちゃんと聴いてたよ。
お目当ての桃月庵白酒登場。『浮世床』をさらっと。いい声、いい口調。
アサダ二世の手品。アダチ龍光がこんな感じだったんだろうな。
三遊亭歌る多。女流落語の草分け的存在。貫録あるねえ。ネタは、二代目円歌から三代目に引き継がれ、お家芸となった感のある『西行』。落語は概ね男の語りでできており、女流の場合、人物描写に違和感を感じてしまうことが多いが、地噺という手はあるな。講談に女流が多いのも、地の語りが主だからという側面があるのかもしれない。ちょいちょい挟む下ネタが楽しい。気の合うスナックのママと話しているみたい。
そして、もう一人のお目当て、柳家小満ん。新作だろうな。湯に行って、はずみでタクシーに乗って鮨屋で飲み、その後スナックに行ったら土産の折を食われちゃった、って噺。黒門町八代目桂文楽への想いは著書『べけんや』に詳しい。黒門町のようなメリハリの利いた華やかさはないが、何とも言えない品のある色気があって、この辺が文楽を思わせる。ふわふわと小満んの世界に浸る。
ここで中入り。
くいつきは林家彦丸。今年3月に真打に昇進したばかり。まだ30代か、若いねえ。師匠正雀譲りの生真面目な語り口。ネタは『花筏』。
翁家社中、大神楽。
そして、本日の主任(トリ)、林家正雀が高座に現れる。出囃子は「あやめ浴衣」。彦六こと八代目林家正蔵の衣鉢を継ぐに、ふさわしい登場だ。
この芝居は正雀の怪談噺がメイン。この日は3夜にわたる『怪談乳房榎』の最終日。『十二社の滝』。
絵師菱川重信の弟子磯貝浪江は、師匠の妻おきせに懸想し、師匠が泊まりがけの仕事をしている留守に彼女を口説き、想いを遂げる。密通を重ねた上、下男正介を脅し、重信を蛍狩りに誘い出し、待ち伏せて殺害。おきせの後添いに収まると、重信の遺子間与太郎を亡き者にするため、またもや正介を脅し、四谷の十二社の滝の滝壺に、間与太郎を投げ込むよう命じる。正介は乳の出なくなったおきせのかわりに鳩ケ谷の親類に間与太郎を養育させようという名目で間与太郎を連れ出し、十二社の滝に向かう。
業の深い噺だな。おきせは浪江が間与太郎を殺すというので泣く泣く身を任せるのだが、次第に浪江との愛欲に溺れていく。正介は根は善人だが、浪江に脅され命惜しさに、嫌々ながら主人殺しに加担させられる。そして、如才なく細やかな気遣いを見せながら、その実邪悪な心を持つ浪江。本当に悪い奴は、表面上は愛想のいい、「いい人」だったりするのだ。
正雀はその成り行きを丁寧に語り込んでゆく。過剰な心理描写を排した叙事的な語り口。演じるというよりは「語る」と言った方がいいかもしれない。まさに林家の怪談。最後に出てきた重信の幽霊は太鼓のドロとも相まって迫力があったな。
正雀・彦丸師弟によるかっぽれで賑やかにお開き。この二人らしい、折り目正しいかっぽれでありました。



2016年8月10日水曜日

小田急線途中下車の旅

小田急向ヶ丘遊園駅の辺りに着いたのは12時半を過ぎた頃。昼飯の時間だ。
どこで食べるかは決めている。カレー専門店インドール。この地に店を構え40年。この街でずっと愛されてきた。
昨年は山の上の大学に行って、半ば熱中症になりながらこの店に飛び込んだ。生ビールを飲み、昔ながらのインドールカレーを食べたが、あまりに夢中で福神漬けひとつトッピングしなかったことに後悔した。
今回はいささか余裕がある。まずは何はなくとも生ビール。そしてインドールカレーの10倍をオーダー。ここは10倍ごとに20円払えば辛さを増すことができる。マックスは100倍で、昔はこれを制覇すればポラロイドで記念写真を撮って店内に飾ってくれた。(今はそのサービスはやっていない)
私は辛いのは好きだが、激辛は無理。せいぜい10倍が限度である。

ちゃんと福神漬け等をトッピングしました。

食後のコーヒーまでゆっくりと楽しむ。
その後は、向ヶ丘遊園駅の南口辺りをぶらぶら歩く。

駅名となった向ヶ丘遊園という遊園地は今は存在しない。2002年に閉園してしまった。今はその入り口付近に、藤子不二雄ミュージアムが建っている。

遊園地はなくなったけど、ダイエーは残っている。


遊園地があった頃は、小田急の駅から遊園地入口までモノレールが通っていた。
この三叉路の左手の方からモノレールが来ていた。

遊園の駅から小田急線に乗る。ここでもやはり途中下車の旅。
去年行けなかった祖師ヶ谷大蔵に降りる。


祖師ヶ谷大蔵はウルトラマン押しらしい。

結構古い建物が残っていて楽しい。



ゾフィーが飛んでます。

アップで。


祖師ヶ谷大蔵の駅近くに、飲食店が密集している区画を発見。見覚えがある。




おお、ここは「キッチン欅」とか「熊本ラーメンもっこす」があった所ではないか。
さすがに店は変わっているけどね。

なかなか怪しげな飲み屋。
創業32年ということは、私たちが卒業してからできたのね。

次は経堂に降りる。
ここも店は変わったが、けっこう古い建物が残っていて歩いていて楽しい。

東京農大のオープンキャンパスをやっていた。



歌ん朝さんが住んでいたアパートがあった方を歩く。


この道にも古い建物が残る。

ひたすら歩いて行くと、豪徳寺へ出る。



世田谷線の線路を渡る。

豪徳寺の商店街に入る。

世田谷線の電車。



豪徳寺の駅から電車に乗る。

新宿の思い出横丁で焼き鳥でビール、酒。1時間ほどゆっくりして、池袋演芸場へ向かった。

やはりシメはこれですな。