昨日、三代目三遊亭圓歌の訃報を知る。
私が小学生の頃、若手の売れっ子といえば、林家三平と三遊亭歌奴(後の三代目圓歌)であった。私としては小噺の羅列の三平より、ストーリー性のある歌奴の方が好きだった。
その半生は『三遊亭圓歌ひとり語り』(河出書房新社・2014年刊)に詳しい。
東京向島で育つ。昭和4年生まれか7年生まれか、はっきりしない。向島区役所が戦争で焼けて、正確には分からないのである。だから、メディアによっては、享年85としてある所と、88としてある所が混在している。
親の顔もろくに知らず、もの心ついた時には、駄菓子屋を営む祖母とともに暮らしていた。住んでいたのは玉ノ井遊郭があった辺り。幼なじみには漫画家の滝田ゆうがいた。
岩倉鉄道学校を出て、新大久保の駅員になったが、戦争が終わってすぐ、二代目三遊亭円歌に入門する。知り合いの落語家に「落語をやればどもりが治るんじゃないの」と勧められたのがきっかけだった。入門してみれば、師匠の円歌も吃音だったというから面白い。
大ヒット作は言わずと知れた『授業中』。吃音の小学生が、カール・ブッセの「山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う」を朗読するも、どもって「山のアナアナアナ・・・」と言ってしまうのがバカ受けに受けた。自らの吃音を逆手にとっての創作だった。
昭和45年(1970年)には、師匠の名跡である三代目圓歌を襲名する。圓歌時代の大ヒットが『中沢家の人々』。自分の両親、先妻の両親が同居している所に、新妻の両親もやって来て、老人6人をいっぺんに面倒見るドタバタを描いて爆笑を呼んだ。高齢化社会を先取りしたような落語である。この噺は幼い頃から家庭に恵まれなかった圓歌が、理想の家族を思い描いて作ったのだという。
2本とも圓歌の屈折を基に作られた噺だ。ただの爆笑ネタではない。そうでなければ、何十年も受け続けるはずがない。
2014年8月、鈴本演芸場昼の部が、私が生の圓歌を観た最後になった。この時は、「御前落語」の思い出を喋っていた。幾分たどたどしくはなっていたものの、相変わらず面白かったし、客にもよくウケていた。
トリの三遊亭歌之介がまた熱演。5秒に1度の爆笑といっても過言ではない。その辺りはまさに師匠圓歌譲りだが、彼の懸命のサービス精神は圓歌のライバル初代林家三平を彷彿とさせた。歌之介に、圓歌・三平の遺伝子が受け継がれているのを見て、私は嬉しかった。
私が中学1年の頃、石岡で圓歌の独演会があった。落語が好きだという私に、伯父がわざわざチケットを取ってくれた。しかし、その日は部活の試合と重なっていて、泣く泣く諦めざるを得なかった。気の毒に思った父が、本屋で興津要編『古典落語』を買って来てくれた。これが私が落語にハマるきっかけとなったのだ。
三代目三遊亭圓歌は、だから、私を落語に導いてくれた恩人なのである。
圓歌師匠のご冥福を祈る。これだけ客を笑わせることに徹し、笑わせ続けた人もいないだろう。本当に長い間楽しませていただきました。ありがとうございました。