初代のおばあさんは、名前をそて(ソデ)といい、天保9年(1838年)に生まれた。三遊亭圓朝の一つ上。初代柳亭燕枝、四代目桂文楽(俗にいう「でこでこの文楽」)、政治家では大隈重信、山形有朋、役者では九代目市川團十郎が同い年である。当時の水戸藩主は徳川斉昭。翌年には蛮社の獄があった。明治維新が30歳の時か。前半生は、まさに幕末の激動の時代だったのだ。
明治15年(1882年)、夫丑之介と別れ、今の土地に移り住む。裁縫所を開き、近隣の子女の教育に貢献した。裁縫所の教え子が出資し、うちの墓を建立してくれたのが明治34年(1901年)であった。
明治41年(1908年)、隣町から養子をもらい一時隠居するも、間もなく養子が出奔、翌年戸主に戻った。
明治42年(1909年)、二人目の養子をもらう。この人が私の祖父である。祖父は明治44年(1911年)、初代のおばあさんの生家から嫁をもらう。
初代のおばあさん、そてが隠居したのは大正10年(1921年)。ということは、少なくとも83歳までは存命だったということだ。
戸籍謄本には、そてさんの没年は書いていない。
そてさんの連れ合いが、天狗党だったと聞いている。
しかし、その人が誰なのかがはっきり分からない。
そてさんは夫と別れた後、分家の形を取って旧姓に戻すことなく、終生夫の姓を名乗っていた。墓には、そてさんの戒名と並んで、男の戒名が彫ってあり、過去帳には当家初代「清庵」と残っている。しかし、過去帳にも墓にも丑之介という名前は残っていない。
では、そてさんはここに移り住んでから新しい夫を迎えたのだろうか。そして、それが清庵さんなのだろうか。しかし、祖父の戸籍には、養母はそての記載があるが、養父は空欄である。
うちに残る掛け軸には、そてさんと総髪の初老の男が並んで描かれている。この総髪の人が天狗党だったということだ。
それがこれである。
ここからは推察である。明治15年以降に、そてさんは新しい夫を迎えた。この明治24年に描かれたのがその人だ。そして、その人は墓ができた明治34年まではこの家にいた。墓には彼の戒名も彫られた。この人が清庵さんなのではないか。しかし、祖父が養子に来る明治42年の頃には、家を出てしまっていた。(もし亡くなっていたら、祖父の戸籍の養父の欄には、亡**という記載があったはずである。)
その間、戸主は2番目の夫に移ることはなく、ずっとそてさんが務めていた。何といってもこの家は、そてさんが経営する裁縫所によって生計を立てていたのだから。
さて、この推測が当たっているかどうかは分からない。もはや当時を知る人も生きてはいまい。真相が明らかになることは、もうないだろう。
でも、こうやって遠い昔に思いをはせ、我が家のルーツを想像してみることは楽しい。また何か面白いものがみつかるといいなあ。
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