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2017年5月1日月曜日

春風亭小朝の八代目桂文楽論


1998年に小学館から出たCDブック『八代目桂文楽』。ここには多くの人が寄稿しているが、中でも春風亭小朝の文章が異彩を放っている。


小朝は中学1年生の時、初めて文楽を見かけたときの印象をこう語る。
「体から異様なオーラを発散していまして、そのオーラというのも、いわゆるスターが出しているようなきらびやかな、金色に輝くような、そういうオーラではないんです。谷崎文学をほうふつさせるような、ちょっと異形というか、異様なオーラを体から出していたのを、子供心に強烈に覚えています。」 

そして、文楽の人間性や芸の本質について、以下のように考察していくのである。
「文楽師匠という方は、強烈なサディズムとマゾヒズムを同居させていた方だと思うんです。で、そのまん中に、何というんですかね、どろりとした、言葉では言い表せないような独特の感性がありました。
 (中略) なぜ僕がそういうことを考えるようになったかというと、文楽師匠のレパートリーがあまりに偏っているということなんです。
 中心になっているネタが、盲人と幇間、それからすべての物を支配して君臨する旦那が主人公、というこの三つなんです。
  志ん生師匠や圓生師匠のようにレパートリーの多い方がこういうネタを持っているなら不思議はありません。だけど、文楽師匠のようにネタの数の少ない方が、その八割ぐらいまでがそういうネタであるというのは、異常だと思います。
 (中略 筆者注:『按摩の炬燵』、『愛宕山』などの演目が挙げられる)もうとにかく弱い立場の人間が徹底的に虐待される噺なんです。
  もちろん虐待されるということは、虐待している側も出てくるわけで、(中略 筆者注:同様に『かんしゃく』『寝床』など)よくもここまでいじめたりいじめられたりする落語だけをレパートリーに入れたなという感じがするんです。
 もちろんネタはご自分で選ぶわけですから、文楽師匠の中で非常に演じ易いと思ってこのネタを選んでいるわけです。自分の姿が投影し易い、自分の姿がその落語に合っているということだろうと思うんです。
 極端にいじめたり、極端にいじめられたり、どちらをやっているときも文楽師匠には快感があったんだろうと思います。」 

この切り口は斬新だった。いわゆる「無駄のない」「磨きに磨き上げられた」「完全無比な」等という常套文句の出てこない、文楽という人間の深淵に迫るかのような論評は初めてだった。文楽が、ただ「陽気で」「気配りがきいて」「その一方で小心で」というだけでない、複雑で陰翳のある人物として立ち上って来る。これはこれで文楽を多面的に理解する上で、優れた見方なのではないかと、私は思ったのだ。 

小朝は、2000年刊『言葉の嵐』(筑摩書房)の中でも、文楽に触れており、次のように書いている。
「文楽師匠は、ちょっとでも自分の考えている事と違う事態が起こることを、極端に怖れていた方だと思います。もともと神経の細やかな人は背景に強いコンプレックスを持っている事が多く、当然、師匠も例外ではありません。
 噺家としては不器用であるという自覚、そしてひとりの人間としては、幼年期あるいは少年期のトラウマがかなりあったような気がします。十八番のほとんどが、主人公を極限まで追い詰める噺であるという点にも性格が表れているような気がします。」 

主張としては、ほとんど前述のCDブックのままだ。小朝にとって文楽はこのような人物として定義されていたと言っていい。
しかし、ここで私は、ここまで人の心の闇に迫ろうとする、あるいは迫ることのできる、小朝自身について考えてしまう。論ずるというのは自分を語ることでもある。小朝もまた自身の中に、文楽の闇に感応するような部分が、どこかにあるのではないだろうか。 
『言葉の嵐』中のこの文章の冒頭近くに、「ところで皆さん、文楽師匠が浣腸マニアだって御存知でした?」という文章が出てくる。
確かに文楽には毎朝の浣腸の習慣があった。柳家小満んの『べけんや』の中にもその場面は登場する。小満んは、その情景を懐かしげに楽しく描いたが、それが小朝を中継すると「浣腸マニア」という刺激的な言葉に転換される。その後、「文楽師匠はきっと、二、三日前に食べた物がお腹にあることが許せなかったんでしょうね。自分の身体が汚れていくような感覚があったのかもしれません。それに、もし仕事場でもよおしてきたりしたら、集中力がなくなりますから、一日の始まりにきちんと出しておく、これも芸のためです。」と客観的な考察を入れているとはいえ、である。
刺激的な言葉で読者を惹きつけようとした、と考えるのが普通だし、それが正しいのだろう。ただ、私としては違和感が残った。そしてその違和感は、小朝のCDブックでのこんな記述に行き着く。
彼は文楽を「強烈なサディズムとマゾヒズムを同居させていた方」とした上で、「極端にいじめたり、極端にいじめられたり、どちらをやっているときも文楽師匠には快感があったんだろうと思います。」と言うのだ。ん?快感?ここでも刺激的な言葉を使っているな。
もしかして小朝は、文楽にそのような性向があったとでも言いたいのか。そして、その部分に敏感に感応するということは・・・。そう考えると、私は、小朝にも「どろりとした、言葉では言い表せないような独特の感性」を、感じずにはいられなくなったのである。

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