「石山女角力繪葉書」とある。
ネットで調べてみると、「興行としての女相撲に関する研究」(『日本体育大学紀要 22巻 2号』より)という論文を見つけた。金田英子氏が平成4年に書いたものである。面白かったので、これを基に記事にしてみる。
女相撲自体は『日本書紀』に見られるが、興行としては江戸時代、文政年間に始まったという。明治以降盛んになり、一時は禁令が出されるほどだった。
「石山女相撲」は大正12年12月1日、京都で、西方17名、東方17名の計34名で興行を打っている。「興行は歯力、腹受けなどの力持、角力甚句、深川などの手踊演芸と角力取組の組合せの形式で、当時としては最も大きな一座であった。」としてある。
大正13年3月には、浅草仲見世裏空き地で興行、観客の男の飛び入りを許したところから興行禁止となった。
昭和5年6月20日、石山浜四郎を団長とする一行が25名の女力士と共に、約半年間にわたるハワイ巡業を開始。その帰朝記念で作られたのがこの絵葉書なのだろう。
では、中身を見てみよう。
「腹の上に土俵十俵を二重に積み其の上に臼を乗せ力士二名いて餅搗きをなす」という力技。 |
「力士五名を我身に纏い土俵を歩行す」という力技。 |
絵葉書には取組はない。力技が中心だ。スポーツというものではなく見世物としての側面が強かったのだろう。
昭和16年11月27日から京都府宇治駅吉田屋旅館前空地での興行宣伝文が味わい深い。
「防空演習でも開演いたします。見よ非常時日本人の血を湧かす、来れ大国技角力の火と熱の戦場へ。
昨年御当地に於て多大の人気を博したる大日本女角力協会遠江灘一行五十余名と当年二十歳三十七貫の新進巨豪も加て開場致します。
何卒賑賑敷(なにとぞにぎにぎしく)御来場の程を」
年代から見て祖父のものかな。粋なもんだ。
ネットで画像検索したら、同じのがあった。こんな田舎にまで流通したんだから、数はけっこうあるんだろうな。
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