昭和41年(1966年)9月27日付、朝日新聞夕刊に「寄席番組で巻き返しへ」という見出しの記事がある。翌月からTBSテレビが新企画を打つというものだ。
少し引用してみる。
「TBSテレビは古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円生、柳家小さん、三遊亭円遊、林家正蔵と六人の大看板を専属にかかえ、他局でうらやましがられていたが、かえってこの存在が他局を刺激し、他局にヒット番組を作らせた傾きもあった。NETテレビの『日曜演芸会』、『テレビ寄席』、フジテレビの『お笑いタッグ・マッチ』などがそうで、大看板をもたない局が、若手タレントをフルに使い、寄席に現代的な動きをとり入れたので、TBSのほうが宝の持ちぐされの感もあった。」
TBSと落語家といえば、昭和28年(1953年)にラジオ東京(後のTBS)の名プロデューサー出口一雄が、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生、柳家小さん、昔々亭桃太郎の五人と専属契約を結び、業界を震撼させたことが有名である。翌年、志ん生がニッポン放送に引き抜かられるが、出口はすぐさま春風亭柳好、林家正蔵、三遊亭円遊、春風亭小柳枝と契約を結び、さらにその翌年には文楽の弟子、三升家小勝を専属にした。NHKの春風亭柳橋、桂三木助、文化放送の三笑亭可楽、古今亭今輔、ニッポン放送の古今亭志ん生、三遊亭円歌と比しても、質量ともに圧倒している。(後に三遊亭円生がNHKに出演するなど、この専属制も有名無実化していくのだが。)
一方、出口がラジオ東京五人衆と専属契約を結んだ昭和28年、テレビ放送が始まった。ラジオ東京も昭和30年(1955年)、テレビ放送に進出し、ラジオ東京テレビ(KR)を開局。出口も芸能課長に就任した。その頃に出口は「新人落語会」という番組の司会に林家三平を抜擢する。三平はテレビという媒体で瞬く間に売れた。この昭和の爆笑王誕生のきっかけを作ったのは、出口一雄だったと言っていい。
そして、テレビは若手落語家をタレントとして売り出していく。春風亭柳昇、三遊亭小円馬、三笑亭夢楽、桂伸治(十代目桂文治)、金原亭馬の助、柳家小せん、春風亭柳好(四代目)などは、こうして世に出てきた。大看板を抱えていなかった他局が、テレビの特性を生かし、若さを武器に大衆の心をつかんで、大看板中心のTBSの牙城を脅かすという図式は、大正期の東京演芸会社に対する睦会の健闘を見るようで、興味深い。
ここでTBSが巻き返しを図る、というのが、この新聞記事である。
TBSは当時の若者のお笑いのメッカ、東急文化会館に目を付け、ここで「お笑い大合戦」を上演し、それを中継放送しようというのである。その内容を引用しよう。
「その内容は『爆笑寄席』(水)『お笑い昼席』(金)。その中で水曜の『お笑い裁判』は大看板六人に、ゲストのはなし家一人を加える豪華版。ゲストを被告に仕立て、一席落語をさせて有罪(?)の場合は、歌や珍芸を披露させる、この間大看板たちのおしゃべりや珍芸もはいる趣向だ。すでに第一回のゲストには、売れっ子の桂伸治が起用され、TBSテレビはこの新番組に期待をかけているが、大看板たちが若い人にどう受けるか。興味のあるところ。」
記事を読んだだけでも、受けるとは思えない。大看板よりも若いゲストに芸を披露させ、有罪無罪を判定し、有罪だったら罰ゲームをさせる、その〝上から目線〟は若者に受け入れられるだろうか。大看板たちの珍芸に、果たして需要はあったのだろうか。この時、TBSは、いささか迷走していたように見える。
昭和41年当時、出口さんは59歳。60歳定年を企業への努力義務になったのが昭和61年(1986年)だったということを考えると、その頃は55歳定年が一般的だったと思う。とすれば、出口さんは既にTBSを退社し、デグチプロを立ち上げていたか。この辺り、出口の姪、SUZIさんは憶えていらっしゃるだろうか。
SUZIさんの回答は次の通り。
「私の記憶する限りでは、伯父は確か芸能部長(次長かなあ?)で引退したんだと思います。
その後重役職だかなんだかの椅子があるのに、人事は嫌い、と言うので辞めて、デグチプロを立ち上げた気がします。
伯父は『俺は人を会社の組織の中で使いこなせることの出来る人間じゃないんだよ』と言っていました。
引退が何年かなんてナーーンニモ私は覚えていません。退職と同時にデグチプロは興したんだと思います。
芸人さんの誰がいつどうだとかこうだとか、契約とか、引抜きとかナーーンニモ知らないし、私には興味もなかったですね。
私は社会人になってからは、日野という東京の郊外暮らし、仕事に夢中だったし、六本木まで行く機会も減り、伯父の世界からは遠のいてしまいましたね。」
そういえば、DVD『落語研究会 八代目桂文楽全集』に、文楽の歌と踊りが入っていたことを思い出し、取り出してみた。解説では「落語裁判」について、川戸貞吉が書いていた。
川戸がTBSに入社した頃は、珍芸ブームの真っ最中、演芸と言えば「大喜利」といった状況だった。そこで新聞記事にもあったように、TBSも「専属の落語家を起用した大喜利番組をやる」ということになった。担当になった川戸は、専属の大看板たちに大喜利をやらせることに困り果て、出口一雄に相談する。そのくだりを以下に引用してみよう。
「頭を抱えながら大プロデューサーの出口一雄さんに相談に行った。そこで出てきたのが〝落語裁判〟だった。昔から寄席で演じられてきた〝落語相撲〟を裁判に置き換えたお遊びなのである。噺かが演じた噺の穴・矛盾点を観察側が突き、それを弁護側が弁解、最後に裁判長が判決を下し、負けた方が懲罰を受けるという大喜利だ。裁判員風の衣装を身に着けた大看板達が、マジメな顔して出演してくれたことは、いま考えても不思議でならない。」
このDVDには、文楽の歌う「有明」と踊り「深川」が収められている。「深川」について川戸はこのように書いている。
「さて、〝落語裁判〟もいよいよ最終回を迎えることになった。是非とも文樂師匠の踊りが見たかった。毎度のことながら出口さんに相談をすると、『お前が直接頼みにいってこい』という。恐る恐る黒門町のお宅にうかがったところ、「君ィ、シャレですよ、シャレ」と承知してくれた。これが何十年ぶりに踊った、ご愛嬌の『深川』である。」
「大プロデューサーの出口一雄さん」ということは、当時出口さんは現役だったのだろうか。いや、出口さんは川戸氏にとって、いつまで経っても「大プロデューサーの出口一雄さん」だったのかもしれない。(私は出口さんが現役だったら、こんな企画は考えなかったと思う。)いずれにしても「大看板達を使った大喜利番組」などという破天荒な企画は、出口一雄の存在なしには実現できなかったのだろう。
〝落語相撲〟は、文楽の著書『あばらかべっそん』にも出てくる。これを下敷きにするなんざ、いかにも出口さん、明治生まれらしいな、と思う。
しかし、〝落語裁判〟最終回の「深川」が、1966年(昭和41年)収録ということは、この番組、半年ももたなかったということになる。
やっぱり当たらなかったんだねえ。
ちなみに、六代目三遊亭圓生『寄席楽屋帳』(青蛙房)によると、昭和43年(1968年)6月に専属制は解消されたということである。
0 件のコメント:
コメントを投稿