昨日の日記。
朝、サバ缶トースト、牛乳。
次男は土曜授業で学校へ行く。よく晴れて暑い。
昼は長男と石岡の紫園へ行く。私はナポリタン、長男はミックスサンドを食べる。
せっかくだから少しだけ中町通りを歩く。
高木書店で石井妙子著『女帝 小池百合子』を見つけてすかさず購入。
夕食はピザ、じゃがいも、マカロニ、生ハムメロンでビール、白ワイン。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
今日の日記。
朝、ホットサンド、牛乳。
昨日とは打って変わって激しい雨。
キース・ジャレットの3枚組のレコード、『ソロ・コンサート』を聴きながら『女帝 小池百合子』を読む。昨日の午後と今日の午前中をかけて読了。
権力者にすり寄り、嘘を重ねながらステイタスを上げていく一人の女性の物語。成育環境は痛々しい。個人的には同情したいが、これが権力者として社会を動かすとなると話は別だ。こういう人に権力を握らせてはいけないと思う。でも、えらくなる人に、その資格や適性がある人は往々にして少ないんだよなあ。見かけの派手さ、プレゼンの巧みさだけでのし上がってしまう例を、小池に比べてスケールは小さいが、私もいくつか見ている。
昼は緑のたぬき。
妻と夕方ビール。
夕食は棒棒鶏、シューマイ、サラダでビール、酒。食後にアイリッシュウィスキー。
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2020年6月27日土曜日
紫園 スパゲティーナポリタン
2020年6月26日金曜日
夏目漱石「私の個人主義」
夏目漱石に「私の個人主義」という文章がある。これは漱石が学習院で行った講演が基になっている。
これがいい。日本の中枢を担うであろうエリートには、必修にしてほしい。
権力を持つことの慎みや責任を、エリートたちには自覚してほしい。
漱石の言葉は、その自覚を促すに最適であると私は思う。漱石は、やはり優れた教師だったのだなあ。
できれば、何十年か前の成蹊大学の学生にも聞かせたかった。でも、あの人には漱石の言葉は届かなかったろうな。
(ツートップの片割れは学習院の出身だったか。学習院はこの文章、全ての学生に読ませなきゃ駄目でしょう。・・・まあ、あの人は読んでも無理か。)
これがいい。日本の中枢を担うであろうエリートには、必修にしてほしい。
私が読んで印象に残った所を抜き出してみる。
学習院という学校は社会的地位の好い人が入る学校のように世間から見做されています。そうしてそれが恐らく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、寧ろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後貴方がたに付随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。換言すると、貴方がたが世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるということなのです。
権力とは(中略)自分の個性を他人の頭の上に無理矢理圧し付ける道具なのです。道具だと判然云い切ってわるければ、そんな道具を使い得る利器なのです。
好きな事、自分と性の合う事、幸にそこに打つかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、何うかあいつもおれの仲間に引き摺り込んで遣ろうという気になる。其時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上がるし、又金力があると、それを振り蒔いて、他を自分のように仕立て上げようとする。即ち、金を誘惑の道具として、其の誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
我々は、他の自己の幸福のために、それの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
私は何故ここに妨害という字を使うかというと、貴方がたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。
第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性を尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に金力を示そうと願うなら、それに伴う責任がなければならないという事。つまり、この三カ条に帰着するのであります。
権力を持つことの慎みや責任を、エリートたちには自覚してほしい。
漱石の言葉は、その自覚を促すに最適であると私は思う。漱石は、やはり優れた教師だったのだなあ。
できれば、何十年か前の成蹊大学の学生にも聞かせたかった。でも、あの人には漱石の言葉は届かなかったろうな。
(ツートップの片割れは学習院の出身だったか。学習院はこの文章、全ての学生に読ませなきゃ駄目でしょう。・・・まあ、あの人は読んでも無理か。)
2020年6月22日月曜日
雨の日のビリー・ホリデイ
休みが取れたので、昼前に帰る。
妻は友だちとランチに出掛けた。
長男が家にいて、大学のリモート授業を受けている。
昼は妻が作っておいたかつ丼を食べる。食後にコーヒーを淹れる。
ビリー・ホリデイのレコードを2枚聴く。ヴォーグ盤の『ビリー・ホリデイの世界』『ビリー・ホリデイ・ラスト・レコーディング』。雨の日のビリー・ホリデイはいい。
村上春樹の『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(1997年刊)の中の「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」を読む。
こんな内容の文章だ。
妻は友だちとランチに出掛けた。
長男が家にいて、大学のリモート授業を受けている。
昼は妻が作っておいたかつ丼を食べる。食後にコーヒーを淹れる。
ビリー・ホリデイのレコードを2枚聴く。ヴォーグ盤の『ビリー・ホリデイの世界』『ビリー・ホリデイ・ラスト・レコーディング』。雨の日のビリー・ホリデイはいい。
村上春樹の『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(1997年刊)の中の「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」を読む。
こんな内容の文章だ。
村上春樹が高校時代の話。ある女の子について、誰かが何かよく分からない名前を口にしたので、その子のあだ名だと思って、村上は何の気なしに教室の黒板に書いた。彼女はそれを見て真っ青になる。村上がそれを書いたことを認めると、泣き出して教室を出て行った。それ以降、クラスの女の子のほとんどが村上に口をきいてくれなくなった。一週間ほどして、二人の女の子が村上に事情を説明してくれた。村上が黒板に書いたのは、神戸の被差別部落のひとつの俗称で、泣き出した子はそこの地域の住人だったという。村上は何も知らなかったことを弁明した上で謝罪し、彼女も謝罪を受け入れてくれたという。
このエピソードを受けて、村上はこう書く。
「それがショッキングだったのは(中略)そのときの僕には、そんなことで人が人を差別するという事実がよく呑み込めなかったからだ。でもただそれだけではない。僕にとってそれよりもショッキングだったのは、この世界では人は誰でも、無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという、残酷で冷徹な事実だった。僕は今でも一人の作家として、そのことを深く深く怯えている。
でも、そのときにみんなで結束して、僕とひとことも口をきいてくれなかったクラスの女の子たちのことを思い出すと、今でも少し胸が熱くなる。それが僕のこの、あまり思い出したくない重苦しい話のポジティブな側面である。」
差別という事に関して、最近、考えさせられることが多い。
村上春樹の「そんなことで人が人を差別するという事実がよく呑み込めなかった」という健全さと「この世界では人は誰でも、無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという、残酷で冷徹な事実」に怯える謙虚さを思う。
それに対して醜いと思うのは、そこにある差別をなかったことにする人たちや、差別で商売しようとしている人たちである。本屋で平積みになっているそっち系の本を見るだけで気持ちが悪くなる。地獄の釜の蓋が開いたような世界に、私たちは生きている。
ラジカセが壊れてカセットテープが聴けなくなったので、夕方、ケーズデンキへ行って3000円もしない安いやつを買って来る。これで寝しなに落語が聴ける。
夕食はカレー。うちのカレーは旨い。
差別という事に関して、最近、考えさせられることが多い。
村上春樹の「そんなことで人が人を差別するという事実がよく呑み込めなかった」という健全さと「この世界では人は誰でも、無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという、残酷で冷徹な事実」に怯える謙虚さを思う。
それに対して醜いと思うのは、そこにある差別をなかったことにする人たちや、差別で商売しようとしている人たちである。本屋で平積みになっているそっち系の本を見るだけで気持ちが悪くなる。地獄の釜の蓋が開いたような世界に、私たちは生きている。
ラジカセが壊れてカセットテープが聴けなくなったので、夕方、ケーズデンキへ行って3000円もしない安いやつを買って来る。これで寝しなに落語が聴ける。
夕食はカレー。うちのカレーは旨い。
ミー太郎の寝床も冷感素材にしました。 |
2020年6月21日日曜日
アサヒカメラ休刊
昨日の日記。
朝、パン、牛乳、ベーコンエッグ。
母の四十九日法要。
昼は隣町の料理屋で会食。ここは川魚料理が名物。母の好物、鰻をいただく。
2時過ぎ帰る。ほっと一息。
父が飲みたがったので、一緒にビールを飲む。
夕食は、お持ち帰りの鯉のうま煮で渡舟。旨し。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
テレビで「アド街ック天国」を観る。今回は「茨城県鉾田市」。同市出身の磯山さやか、カミナリがゲスト。
名物の御当地ギャルを紹介するコーナーでは、若いお姉さん60人撮りきれず、カミナリのお母さん二人が登場しておりました。
今日の日記。
朝、トースト、紅茶、目玉焼き、ウィンナーソーセージ。
子どもたちを連れて、ヤマダ電機と本屋に行く。
『アサヒカメラ』が今月で休刊と聞き、買って来る。
20年ほど前、3年ぐらい毎月買ってたなあ。90年以上の歴史を持つ写真雑誌の老舗が、ついに終焉を迎えたか。私も今はほとんど写真のプリントはしていないもんなあ。
昼はざるそば。
夕食は、父の日なので焼肉にする。ビール、渡舟を飲む。
食後にアイリッシュウィスキー。
今日は一日、私もミー太郎もだらだらしておりました。
朝、パン、牛乳、ベーコンエッグ。
母の四十九日法要。
昼は隣町の料理屋で会食。ここは川魚料理が名物。母の好物、鰻をいただく。
2時過ぎ帰る。ほっと一息。
父が飲みたがったので、一緒にビールを飲む。
夕食は、お持ち帰りの鯉のうま煮で渡舟。旨し。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
テレビで「アド街ック天国」を観る。今回は「茨城県鉾田市」。同市出身の磯山さやか、カミナリがゲスト。
「ときわ」の豚肉ナポリが紹介されておりました。 |
今日の日記。
朝、トースト、紅茶、目玉焼き、ウィンナーソーセージ。
子どもたちを連れて、ヤマダ電機と本屋に行く。
『アサヒカメラ』が今月で休刊と聞き、買って来る。
20年ほど前、3年ぐらい毎月買ってたなあ。90年以上の歴史を持つ写真雑誌の老舗が、ついに終焉を迎えたか。私も今はほとんど写真のプリントはしていないもんなあ。
昼はざるそば。
夕食は、父の日なので焼肉にする。ビール、渡舟を飲む。
食後にアイリッシュウィスキー。
今日は一日、私もミー太郎もだらだらしておりました。
2020年6月17日水曜日
柳家小三治の文楽論
柳家小三治の自伝『どこからお話ししましょうか』が面白い。
この中でふれられている「昭和の名人」の中で、師五代目小さんに次いで、小三治が多く紙幅を割いているのが、黒門町、八代目桂文楽である。
小三治の文楽論を見てみよう。
私は必ずしも、八代目桂文楽という人に憧れてたわけではなかったんです。でも、こないだラジオで久しぶりに聞いたら、聞き慣れているはずなのに、すごく新鮮に感じた。素晴らしかった。今のやつは自分も含めて、余計なことを言い過ぎる。文楽師匠の噺は「削ぎ落した」って当時から言われてましたけど、当人は削ぎ落したとは思えない。ふつうのことをふつうに言ってるだけなんだけど、その世界や心が伝わってくる。素晴らしいなあと思いました。今になって桂文楽って名人じゃねえかって、改めて思うんです。いや、こないだまで思わなかったわけじゃない。こうじゃなきゃなあって、今の落語界を見てもそう思うんですけど、受けたい、受けたいっていう受けたいは、「こうしたい」んじゃなくて、「人からこう思われたい」っていうもので、評判ばかり気にしてる。そういうことじゃないんです。人が生きていくうえでの心はこういうことだって、噺はちゃんと持ってるんだから、それをまず伝えてもらいたいよ。そのうえでちょっとお飾りに、こんなこと言ってみたり、あんなこと言ってみたりってそれは構わないけど、なくったっていいんです、そんなものは。
一時、小三治が傾倒した六代目三遊亭圓生については、「うまいなと思うし、すごいなと思うところはあるんですが、心をゆさぶられない。『牡丹灯籠』やほかの人情噺を聞いても、その噺に心をゆさぶられたりはするけど、その奥にいる演者に心動かされることはなかった」と述べているから、文楽への評価がいかに高いかが分かる。
似たようなことをどこかで読んだな、と思って本棚を漁ってみると、『CDブック・八代目桂文楽』(1998年刊)にあった。
山本文郎が司会を務めた五代目小さんとの鼎談「生きることがすべてが〝芸〟だと教えてくれた師匠」での小三治の意見である。
小三治は、世間での文楽の「いつも同じ」という評価に強く反論している。これは文楽をリアルタイムで聴いていた人だからこそ言えることだろう。
録音でしか聴いていない私には正確には分からない。ただ、「文楽はアドリブが得意ではなく台詞を固めざるを得なかったものの、台詞が変わらないというだけで、噺自体は躍動していた」という私の持論に通じている。
「いつも言うことは同じ」の向こうにあるものを見る、小三治の目は確かだ。
文楽はただの「精密機械」ではないのである。
小三治は、文楽の噺を自分が演じることの困難さについても語っているので、それも紹介しよう。
小三治の言葉を通して、文楽落語のすごみが立ち上がる。目利きとしての小三治も、またすごい。
この中でふれられている「昭和の名人」の中で、師五代目小さんに次いで、小三治が多く紙幅を割いているのが、黒門町、八代目桂文楽である。
小三治の文楽論を見てみよう。
私は必ずしも、八代目桂文楽という人に憧れてたわけではなかったんです。でも、こないだラジオで久しぶりに聞いたら、聞き慣れているはずなのに、すごく新鮮に感じた。素晴らしかった。今のやつは自分も含めて、余計なことを言い過ぎる。文楽師匠の噺は「削ぎ落した」って当時から言われてましたけど、当人は削ぎ落したとは思えない。ふつうのことをふつうに言ってるだけなんだけど、その世界や心が伝わってくる。素晴らしいなあと思いました。今になって桂文楽って名人じゃねえかって、改めて思うんです。いや、こないだまで思わなかったわけじゃない。こうじゃなきゃなあって、今の落語界を見てもそう思うんですけど、受けたい、受けたいっていう受けたいは、「こうしたい」んじゃなくて、「人からこう思われたい」っていうもので、評判ばかり気にしてる。そういうことじゃないんです。人が生きていくうえでの心はこういうことだって、噺はちゃんと持ってるんだから、それをまず伝えてもらいたいよ。そのうえでちょっとお飾りに、こんなこと言ってみたり、あんなこと言ってみたりってそれは構わないけど、なくったっていいんです、そんなものは。
一時、小三治が傾倒した六代目三遊亭圓生については、「うまいなと思うし、すごいなと思うところはあるんですが、心をゆさぶられない。『牡丹灯籠』やほかの人情噺を聞いても、その噺に心をゆさぶられたりはするけど、その奥にいる演者に心動かされることはなかった」と述べているから、文楽への評価がいかに高いかが分かる。
似たようなことをどこかで読んだな、と思って本棚を漁ってみると、『CDブック・八代目桂文楽』(1998年刊)にあった。
山本文郎が司会を務めた五代目小さんとの鼎談「生きることがすべてが〝芸〟だと教えてくれた師匠」での小三治の意見である。
ただ私はね、世間の方と違うのは「文楽師匠はいつでもきっちり同じにやって、いつ聴いても同じだ」っていわれるでしょう、その「いつ聴いても同じだ」っていう言葉に非常に抵抗を感じるんです。私はね、こんなに違う師匠はいないだろうと思ってます。それはね「いつ聴いても同じだ」っていうのは私からするとまだ聴き方が素人だな、と思うんです。生身の人間だから、同じわけはないんです。同じだったら、一回録音すればあとは要らない。そのね、せりふも同じ、てをにはも同じ、その心意気も同じ。すべて同じに見える中に、いつも何か師匠自身の噺との対話がありましたね。私はそう思ってます。だから、同じなのにすごく感動するときと感動しないときとあります。乗る乗らないって言葉で一言で片づけてもいいですけど、その差ってのはことばがきっちり決まってるだけにとても大きかったです。
私は後年文楽ファンになりましたから、ファンになってからその差はすごく感じましたね。ファンになる前はね、いつ聴いても同じだと思ってましたよ。だから、物書きの人たちでも「いつも同じ」という表現しかしないけども、私は志ん生師匠のほうがもっと同じなんじゃないかと思います。心としてはね。ただ、演技で表へ出てくるものが二人は違いましたからね。ぞろっぺい(おおまか、いい加減)な部分を言葉でごまかしてましたから、志ん生師匠は。そういう点では、噺のたびごとの心の揺れ動きってものとは、文楽師匠の方が真剣に戦ってましたね。
小三治は、世間での文楽の「いつも同じ」という評価に強く反論している。これは文楽をリアルタイムで聴いていた人だからこそ言えることだろう。
録音でしか聴いていない私には正確には分からない。ただ、「文楽はアドリブが得意ではなく台詞を固めざるを得なかったものの、台詞が変わらないというだけで、噺自体は躍動していた」という私の持論に通じている。
「いつも言うことは同じ」の向こうにあるものを見る、小三治の目は確かだ。
文楽はただの「精密機械」ではないのである。
小三治は、文楽の噺を自分が演じることの困難さについても語っているので、それも紹介しよう。
この『癇癪』という噺は、亡くなりました文楽師匠が得意にしてた噺で、初めて文楽師匠の噺を聴いたときには、ああ面白い噺だなぁ、いつかああいう噺ができたらいいなぁ、落語らしくない噺だな、というような、そんな感じがありまして、で、おぼえまして、しばらくやってたんです。ところが、どうしてもうまくいかない。
どうもその、文楽師匠、いわゆる黒門町といっていた昭和の名人とも言われる人ですね、志ん生と並んで天下を二分したという、その桂文楽という師匠の噺が頭からついて離れない。
(中略)
志ん生師匠の噺はね、けっこう、あの、直しやすいんですよ。
第一、本人が何ゆってっかわかんないんですから(笑)。(志ん生師匠の真似で)「ンェ~でやんしたァ、ン~、そうです」なんて、何がそうだか、ちっともわからない(笑)。
そこへいくってえと、文楽師匠のほうはまことに理路整然として、何が何どうなったって、どうなってもこうなるからこうなる、って、なるほどそれは納得させられます。話術も、見事なもんでございました。あまり見事にやられますってえと、そこから離れるということが難しくなります。(『もひとつ ま・く・ら』より「黒門町の『癇癪』」)
文楽師匠の『船徳』。特に若旦那の姿に鮮烈な印象を受けた。この「黒門町の呪縛」から抜け出す為にもがき苦しんだ。あの『船徳』を聞いていない人がうらやましいとさえ思う。(『落語の友・創刊号』より「印象に残る『船徳』」という質問に対して)
小三治の言葉を通して、文楽落語のすごみが立ち上がる。目利きとしての小三治も、またすごい。
2020年6月14日日曜日
梅雨入り
昨日の日記。
朝、パン、紅茶、フライドポテト、ウィンナーソーセージ。
一日中雨。家にいる。適菜収、『安倍政権とは何だったのか』を再読。
昼前にミー太郎が帰ってくる。びしょ濡れ。
昼は焼きそばを作って食べる。
10年ほど前買った、沼田元氣『ぼくの伯父さんの東京案内』を拾い読む。
夕方にはきれいな夕焼け。
夕食はきりたんぽ鍋でビール、酒。
食後に妻と白ワイン。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
今日の日記。
朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。
久し振りに妻子を連れてイーアスつくばに行く。
結構人が出ていたな。本、CD、万年筆のカートリッジインクを買う。
昼は美味倶楽部でコラボランチ。私は麻婆麺とレタス炒飯を食べる。妻が食べ切れなかった焼きそばも食べる。お腹いっぱい。
2時頃帰って、買って来たリー・モーガンとデューク・エリントンのCDを聞きながら、やはり今日買った、柳家小三治の自伝『どこからお話ししましょうか』を読む。
小三治の複雑で味わい深い人柄がどのように形成されたか、分かるような気がする。父母に対する屈折した愛。今は亡き入船亭扇橋、立川談志、古今亭志ん朝との交流。師五代目柳家小さんの教え。恩人たちへの思い。いいもの読ませてもらった。最後の早世した弟子、喜多八への言葉には泣いてしまったよ。
本当は『女帝・小池百合子』を買うつもりだっだのだが、なかったので、ふと目についた小三治の本を買って来たのだ。多分読後感は小三治の方が圧倒的によかったと思う。休みの午後に読むのには、この方がよかったんだろうな。
夕食は、ほっけ、煮物、ベーコン炒めでビール、酒。
食後にアイリッシュウィスキー。
また夜、雨が降り出す。明日は暑くなるらしい。
最後にミー太郎のどアップ。今日は尻尾を噛まれて帰って来た。
2020年6月10日水曜日
三遊亭小遊三の育った街
「新家の履歴書」という連載で小遊三が取り上げられていたのである。
小遊三と言えば、山梨県大月の出身で売っているが、実は横浜生まれ、川崎育ちだったのだな。しかも、その川崎も、私が住んでいたアパートの近くだったことが分かった。
取りあえず、その部分を紹介する。
箱根駅伝も通る(保土ヶ谷区)権太坂の、東京電力社宅が最初の家です。四歳までそこで、父の転勤で川崎の社宅に引っ越しました。近くには、戦争の爆撃で中が真っ黒焦げの、瓦礫のままの東芝の工場がどーんと建ってて、その向こうが川崎駅でした。川崎の思い出はザリガニ。南武線の土手の脇、尻手と川崎の間のドブ池みたいなところで腐るほど取りましたよ。
1953年(昭和28年)、川崎市立南河原小学校に入学した小遊三は、その年の夏、山梨県大月市に引っ越すことになった。父親の定年退職に伴ってのことであった。
その後のことについては、ここでは触れない。
私にとって重要だったのは、小遊三が私が住んでいたすぐ近くで少年時代を過ごしたということだったのである。
そうか、小遊三の父は東電に勤めていたのか。私の川崎の伯父は東電の社員だった。戦争中はシンガポールに出向していたという。戦後すぐは千住の「お化け煙突」、火力発電所にいたんじゃないかな。川崎に住みだしたのはいつ頃だろう。いずれにせよ、東電勤務でいえば、確実に小遊三の父とかぶっていたと思う。
では、私が撮った川崎のその辺りの写真を載せる。
まずは古めのものから。
東芝の工場。 |
南河原町銀座。 |
奥が尻手駅。 |
尻手駅のホームから。 |
尻手の駅前。 |
尻手駅から川崎方面を望む。 |
南河原の中学校の方。 |
南河原町銀座にあった牛乳屋さん。 |
2020年6月7日日曜日
初夏の休日
昨日の日記。
朝、フレンチトースト、紅茶。
散歩がてら床屋に行く。
昼は次男が作った冷やし中華。
小池百合子の本が読みたくなり、本屋に行く。二軒回ってなく、目についた村上春樹の『猫を棄てる』を買う。
村上と父の物語。エッセイというより私小説のようだ。村上作品の特徴として「父性の不在」あるいは「対決」というのがあると思う。『海辺のカフカ』辺りに顕著に出ているが、『騎士団長殺し』になると、ちょっと様子が変わってくる。何となく、「父なるものとの和解」を感じるのである。
この本を読むと、『騎士団長殺し』には、父親や、母親の亡き恋人の戦争体験が反映されていたということが分かる。
村上の父は大正7年生まれ。第二次世界大戦で3度召集されたが、生き延びた。戦死していたら、村上春樹は存在していなかった。
私の伯父は大正9年生まれで、終戦の約1ヶ月前、ビルマで戦死した。彼が生きて帰っていたら、私は少なくともこの家に生まれてこなかっただろう。
午後から甥が来る。子どもたちと遊んでくれる。
夕食を一緒に食べる。鰹の刺身でビール、酒。食後に妻と白ワイン。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
今日の日記。
朝、マフィン、紅茶。
物置から持って来た、川戸貞吉『落語対談』を読む。
昼は次男が作ったチャーハン。
爽やかな晴天。庭のあじさいが色づく。
宮沢賢治『春と修羅』を読む。「小岩井農場」の連作、「青森挽歌」なんかすごいなあ。
中原中也は京都の古本屋で手に入れたこの本に衝撃を受けたという。処女作『山羊の歌』の中には、賢治の影響が感じられるものが、いくつかある。
夕方ビール。ハートランドビールはつまみがいらない。
夕食は、餃子、モツ炒め、アジフライで酒。食後にアイリッシュウィスキー。
昨夜オールナイトで遊んでいたミー太郎は、午前中ずーっと寝ていたが、お昼頃、また遊びに行った。
朝、フレンチトースト、紅茶。
散歩がてら床屋に行く。
昼は次男が作った冷やし中華。
小池百合子の本が読みたくなり、本屋に行く。二軒回ってなく、目についた村上春樹の『猫を棄てる』を買う。
村上と父の物語。エッセイというより私小説のようだ。村上作品の特徴として「父性の不在」あるいは「対決」というのがあると思う。『海辺のカフカ』辺りに顕著に出ているが、『騎士団長殺し』になると、ちょっと様子が変わってくる。何となく、「父なるものとの和解」を感じるのである。
この本を読むと、『騎士団長殺し』には、父親や、母親の亡き恋人の戦争体験が反映されていたということが分かる。
村上の父は大正7年生まれ。第二次世界大戦で3度召集されたが、生き延びた。戦死していたら、村上春樹は存在していなかった。
私の伯父は大正9年生まれで、終戦の約1ヶ月前、ビルマで戦死した。彼が生きて帰っていたら、私は少なくともこの家に生まれてこなかっただろう。
午後から甥が来る。子どもたちと遊んでくれる。
夕食を一緒に食べる。鰹の刺身でビール、酒。食後に妻と白ワイン。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
今日の日記。
朝、マフィン、紅茶。
物置から持って来た、川戸貞吉『落語対談』を読む。
昼は次男が作ったチャーハン。
爽やかな晴天。庭のあじさいが色づく。
宮沢賢治『春と修羅』を読む。「小岩井農場」の連作、「青森挽歌」なんかすごいなあ。
中原中也は京都の古本屋で手に入れたこの本に衝撃を受けたという。処女作『山羊の歌』の中には、賢治の影響が感じられるものが、いくつかある。
夕方ビール。ハートランドビールはつまみがいらない。
夕食は、餃子、モツ炒め、アジフライで酒。食後にアイリッシュウィスキー。
昨夜オールナイトで遊んでいたミー太郎は、午前中ずーっと寝ていたが、お昼頃、また遊びに行った。
2020年6月6日土曜日
『黄金餅』あれこれ③
物置から、『別冊歴史読本 落語への招待3』(2009年1月12日発行)という本を持って来た。
その中に「黄金餅を歩く」という記事があった。いわゆる「あの道中付けを歩いてみよう企画」である。皆、好きだねえ。ここでは志ん生の弟子、圓菊門下の古今亭駿菊がガイドを務めた。
初めに駿菊はこんなことを言っている。
「実はこの黄金餅は三遊亭圓朝作で、願人坊主の名は源八で住んでいたのは『芝将監殿橋の際に極貧の者ばかり住む裏家』と芝新網町にほど近い土地に設定されていました。それを、志ん生師匠が稽古を受けたといわれる五明楼玉輔、あるいは四代目橘家圓蔵などの演者が長屋の場所を下谷山崎町に移したようです。」
そうか、品川の圓蔵の頃には、場所の設定が下谷山崎町になっていたんだな。道中付けもこの時点で加えられたと見た方が自然か。
志ん生が稽古をつけてもらったのは恐らく五明楼玉輔だろう。この玉輔は四代目。安政4年の生まれで昭和10年に没している。二代目古今亭志ん生門下でしん好。しん多で二つ目となる。志ん生没後は兄弟子二代目今輔の門下となり今朝。一時大阪に流れたが、三代目小さんの勧めで、今輔門下の助六を頼って帰京し春輔と改名。明治39年四代目五明楼玉輔を襲名した。「『小言念仏』の玉輔」と言われるほど、この噺を得意にしたという。
志ん生の師匠、「鶴本の志ん生」(四代目)は二代目今輔の弟子なので、鶴本にとって玉輔は叔父貴分に当たる。志ん生が『黄金餅』を稽古してもらっても不思議はない。
ということは、志ん生が『黄金餅』を仕込んだのは、昭和10年以前ということになるか。
下谷山崎町から麻布絶口釜無村の木蓮寺と思われる所まで約12キロ。この企画では休憩を入れて4時間半かかったという。噺では、金兵衛はさらに一人で西念の棺桶担いで桐ケ谷の火葬場までさらに5キロ歩く。しかも焼けるまで新橋の夜明かしの屋台でつなぐのだから、一晩でどのくらい歩いたのか。すごい執念だなあ。
他にも「江戸四宿」のレポートなどがあって楽しい。色々見逃がしているものがあるんだねえ。
2020年6月3日水曜日
今野勉『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』
宮沢賢治の不穏な文語詩をきっかけに、賢治の謎を追うルポルタージュ。
「賢治の恋」「妹の恋」を縦軸横軸にして、名作『春と修羅』『銀河鉄道の夜』を読み解いていく。
テクストを読み込み、資料を漁り、現地に飛ぶ。貪欲に対象に迫っていく様は迫力満点。テレビのプロデューサーである著者のフットワークはすごい。
いささか一本のストーリーに向かっていく傾向はあるが、豊富な資料に裏付けられた説得力に圧倒される。
「農民のために生涯をささげた聖人」「科学と信仰の融合を目指した哲人」としての賢治、「名作『永訣の朝』や『無声慟哭』を生んだ聖女」としての妹とし子、そんな紋切り型のイメージが吹き飛ぶ。二人とも苦しい恋に身もだえた、生身の人間なんだ。いささかスキャンダラスではあるけれど(賢治は恐らく性的マイノリティであったし、とし子の初恋は新聞の暴露記事となった)、下世話な好奇心に堕すことはない。濃厚な肉の匂いに迷いながらも、二人とも高みを目指してもがいたんだな。その姿は気高く、同時に痛々しくさえある。
触発されて『春と修羅』『銀河鉄道の夜』を読み返した。おかげで読みに深みが加わった。そして、作者の個人的な状況を超えた、普遍的な美しさがそこにあるということも、再認識された。
評論は自分だけでたどり着けない所へ連れて行ってくれる。そこが面白い。
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