これがいい。日本の中枢を担うであろうエリートには、必修にしてほしい。
私が読んで印象に残った所を抜き出してみる。
学習院という学校は社会的地位の好い人が入る学校のように世間から見做されています。そうしてそれが恐らく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、寧ろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後貴方がたに付随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。換言すると、貴方がたが世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるということなのです。
権力とは(中略)自分の個性を他人の頭の上に無理矢理圧し付ける道具なのです。道具だと判然云い切ってわるければ、そんな道具を使い得る利器なのです。
好きな事、自分と性の合う事、幸にそこに打つかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、何うかあいつもおれの仲間に引き摺り込んで遣ろうという気になる。其時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上がるし、又金力があると、それを振り蒔いて、他を自分のように仕立て上げようとする。即ち、金を誘惑の道具として、其の誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
我々は、他の自己の幸福のために、それの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
私は何故ここに妨害という字を使うかというと、貴方がたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。
第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性を尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に金力を示そうと願うなら、それに伴う責任がなければならないという事。つまり、この三カ条に帰着するのであります。
権力を持つことの慎みや責任を、エリートたちには自覚してほしい。
漱石の言葉は、その自覚を促すに最適であると私は思う。漱石は、やはり優れた教師だったのだなあ。
できれば、何十年か前の成蹊大学の学生にも聞かせたかった。でも、あの人には漱石の言葉は届かなかったろうな。
(ツートップの片割れは学習院の出身だったか。学習院はこの文章、全ての学生に読ませなきゃ駄目でしょう。・・・まあ、あの人は読んでも無理か。)
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