物置から、『別冊歴史読本 落語への招待3』(2009年1月12日発行)という本を持って来た。
その中に「黄金餅を歩く」という記事があった。いわゆる「あの道中付けを歩いてみよう企画」である。皆、好きだねえ。ここでは志ん生の弟子、圓菊門下の古今亭駿菊がガイドを務めた。
初めに駿菊はこんなことを言っている。
「実はこの黄金餅は三遊亭圓朝作で、願人坊主の名は源八で住んでいたのは『芝将監殿橋の際に極貧の者ばかり住む裏家』と芝新網町にほど近い土地に設定されていました。それを、志ん生師匠が稽古を受けたといわれる五明楼玉輔、あるいは四代目橘家圓蔵などの演者が長屋の場所を下谷山崎町に移したようです。」
そうか、品川の圓蔵の頃には、場所の設定が下谷山崎町になっていたんだな。道中付けもこの時点で加えられたと見た方が自然か。
志ん生が稽古をつけてもらったのは恐らく五明楼玉輔だろう。この玉輔は四代目。安政4年の生まれで昭和10年に没している。二代目古今亭志ん生門下でしん好。しん多で二つ目となる。志ん生没後は兄弟子二代目今輔の門下となり今朝。一時大阪に流れたが、三代目小さんの勧めで、今輔門下の助六を頼って帰京し春輔と改名。明治39年四代目五明楼玉輔を襲名した。「『小言念仏』の玉輔」と言われるほど、この噺を得意にしたという。
志ん生の師匠、「鶴本の志ん生」(四代目)は二代目今輔の弟子なので、鶴本にとって玉輔は叔父貴分に当たる。志ん生が『黄金餅』を稽古してもらっても不思議はない。
ということは、志ん生が『黄金餅』を仕込んだのは、昭和10年以前ということになるか。
下谷山崎町から麻布絶口釜無村の木蓮寺と思われる所まで約12キロ。この企画では休憩を入れて4時間半かかったという。噺では、金兵衛はさらに一人で西念の棺桶担いで桐ケ谷の火葬場までさらに5キロ歩く。しかも焼けるまで新橋の夜明かしの屋台でつなぐのだから、一晩でどのくらい歩いたのか。すごい執念だなあ。
他にも「江戸四宿」のレポートなどがあって楽しい。色々見逃がしているものがあるんだねえ。
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