「新家の履歴書」という連載で小遊三が取り上げられていたのである。
小遊三と言えば、山梨県大月の出身で売っているが、実は横浜生まれ、川崎育ちだったのだな。しかも、その川崎も、私が住んでいたアパートの近くだったことが分かった。
取りあえず、その部分を紹介する。
箱根駅伝も通る(保土ヶ谷区)権太坂の、東京電力社宅が最初の家です。四歳までそこで、父の転勤で川崎の社宅に引っ越しました。近くには、戦争の爆撃で中が真っ黒焦げの、瓦礫のままの東芝の工場がどーんと建ってて、その向こうが川崎駅でした。川崎の思い出はザリガニ。南武線の土手の脇、尻手と川崎の間のドブ池みたいなところで腐るほど取りましたよ。
1953年(昭和28年)、川崎市立南河原小学校に入学した小遊三は、その年の夏、山梨県大月市に引っ越すことになった。父親の定年退職に伴ってのことであった。
その後のことについては、ここでは触れない。
私にとって重要だったのは、小遊三が私が住んでいたすぐ近くで少年時代を過ごしたということだったのである。
そうか、小遊三の父は東電に勤めていたのか。私の川崎の伯父は東電の社員だった。戦争中はシンガポールに出向していたという。戦後すぐは千住の「お化け煙突」、火力発電所にいたんじゃないかな。川崎に住みだしたのはいつ頃だろう。いずれにせよ、東電勤務でいえば、確実に小遊三の父とかぶっていたと思う。
では、私が撮った川崎のその辺りの写真を載せる。
まずは古めのものから。
東芝の工場。 |
南河原町銀座。 |
奥が尻手駅。 |
尻手駅のホームから。 |
尻手の駅前。 |
尻手駅から川崎方面を望む。 |
南河原の中学校の方。 |
南河原町銀座にあった牛乳屋さん。 |
2 件のコメント:
お化け煙突と接点があったとは。調べてみると1963年まで稼働していたということなので、私は生まれてませんが、見る角度で本数が違うというロマンのあるその存在は地元民にはちょっとした自慢の種だったはずです。
千住には10歳上のいとこが赤ん坊の頃にいたという話です。
木村伊兵衛撮影のお化け煙突の写真が、私は好きです。
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