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2025年1月3日金曜日

湖国探訪⑤ 国宝彦根城

旅2日目。7時起床。前日に買っておいたコンビニのサンドイッチと野菜ジュースで朝食を済ませる。

いよいよ国宝彦根城へ行くのだ。

8時30分に開門というので、その10分前にチェックアウト。ホテルの駐車場に車を置いたまま、徒歩で向かう。

彦根の街からお城が見える。あの小山に登るのか。

佐和口から入城する。

私は幾分緊張していた。私が住んでいるのは、辺境とはいえ旧水戸藩領。水戸藩と彦根藩には深い遺恨がある。

安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸の浪士が、彦根藩主、幕府大老井伊直弼を暗殺した。世に言う「桜田門外の変」である。井伊が主導した、開国に反対する志士を弾圧する「安政の大獄」は、尊攘の総本家水戸藩を直撃し、水戸藩主徳川斉昭は蟄居謹慎となった。それに憤激した水戸藩士が井伊襲撃を計画したのである。

その後、水戸で天狗党の乱が起きる。天狗党は諸生党・幕府軍との戦いに敗れ、斉昭の子、一橋慶喜を慕って京都に向かうが、慶喜は天狗党追討軍に加わる。彼らはもはやこれまでと、加賀藩に投降するも、天狗党の処分は彦根藩に委ねられた。彦根藩の処置は苛烈を極める。彼らを敦賀の鰊蔵に閉じ込めた後、士分は切腹を許されず悉く斬首となった。その数、実に352名。この措置は世の流れを倒幕へ向かわせる一因となった。

水戸も彦根もやり過ぎたのだ。やり過ぎはやり過ぎを生む。ただ、藩主の首を斬られるというのは、彦根藩にとって大きな屈辱だった。あの苛烈な処置も理解できなくはない。

私の先祖は天狗党だ(まあ早々と離脱したようだが)。それでも、その自分が彦根城へ歩みを進めて行っているのだと思えば、感慨深い。

佐和口多門櫓
昭和35年(1960年)に井伊直弼没後100年を記念して復元されたという。

続橋の下をくぐる。

続橋を渡って天秤櫓をくぐる。

やがて天守閣。ひこにゃんがお出迎え。




慶長12年(1607年)頃に完成。大津城から移築されたといわれる。姫路・松本・犬山・松江とともに国宝に指定されている。おお、これで私は国宝天守全てをコンプリートしたことになるのか。うれしい。

天守内にあった井伊直弼像とご対面。水戸浪士の狼藉を詫びる。

天守から琵琶湖や彦根の街を望む。


西の丸三重櫓が公開されていたので、こちらも見学。


ここから見る琵琶湖は、実に美しい。


仕上げに天秤櫓を見学。


ここからは石田三成の居城があった佐和山がよく見える。


初代彦根藩主井伊直政は、三成滅亡後の佐和山城に入るが、家康から新たに城を築くように命じられる。しかし、直政は慶長7年(1602年)佐和山城で死去。翌年、彦根山に築城が決定。当時彦根山は信仰の地であったが、そこにあった寺を移転させ城が築かれたという。(と、ボランティアのガイドさんが丁寧に教えてくださった)

城内には杖が常備されていて、ずっとそれを突いて歩いていた。すっかり老人になった気分だったよ。

大手門跡から城を後にする。お堀の向こうにきれいな雪山が見えた。


それから私たちは「夢京橋キャッスルロード」という、いかにも私たちには似合わないネーミングの通りへ入って行くのであったね。


閑話休題

井伊直弼は先代藩主の14男として生まれた。他家を継ぐ機会にも恵まれず、父の死後は三の丸尾末町の屋敷に移って、そこを「埋木舎」と名付けた。「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠んだ自作の歌に因む。自らを花の咲かない埋もれ木にたとえたのだ。以来、15年間部屋住みの身であり続けた。しかし、彼が32歳の時、兄である藩主の養嗣子が亡くなる。後継者のいなくなった兄は彼を養子に迎えた。こうして井伊直弼は彦根藩主の座に就くことになったのである。

彼の政敵、水戸藩主徳川斉昭もまた、30歳まで部屋住みであった。

二人は藩主就任後、これまでの不遇をはね返すように改革に着手していった。彼らは似た者同士だったのだな。それだけにぶつかり合いも激しかったのだろう。

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