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2015年11月10日火曜日

連玉庵 天ぷらそば、御酒付き


上野、連玉庵。天ぷらそば、御酒付き。
森鷗外『雁』にも登場する老舗。天ぷらそば発祥の店とのこと。
八代目桂文楽と安藤鶴夫の対談に使われたり、古今亭志ん朝がせいろをたぐる写真が残っていたりと、そちらの方でも有名なお店。
この近くには、池之端の藪という名店もあり、私も入ったことがある。ここも文楽・志ん生の色紙が飾ってあったりして、落語ファンにはたまらない店だ。
ただ、鈴本演芸場に近いのと、営業時間の兼ね合いで、私としては連玉庵を利用することが多い。

お銚子の袴に老舗の風格が漂う。
天ぷらそばは大振りの海老が2本入って1500円。御酒は1本700円だ。
1本目の酒を飲み切る辺りで、そばが到着。御酒、もう1本追加。
酒が来る間に、そばをつーっといただく。
そして、「ぬき」状態になったところで、それをつまみにもう1本の酒を飲むのがお気に入り。
胡麻油の香りとぷりぷりの海老、つゆと渾然一体となったコロモが、もうたまりません。
至福のひと時でしたなあ。

では、天ぷらそばのアップです。


2015年11月8日日曜日

上野を歩く



先日、平日の休みがあった。
妻は予定があったので、今回は別行動。寄席でも行って来るよ、ということになった。
開演までの1時間ちょっと、ぶらぶら散歩することにする。


まずは仲之町通りをぶらつく。



途中、面白そうな路地があると入ってみる。

 足は湯島から黒門町方面へ。





薄い建物発見。

左側の空き地が、八代目桂文楽宅跡。

左の写真が文楽師匠のお家。隣の家は、当時のままか。





昼は連玉庵で天ぷらそばと燗酒。
鈴本演芸場昼の部を見る。

帰りにアメ横の養老乃瀧に入り、焼とん、つくね、鳥皮、山かけでビール、酒。
大満足の1日でありました。


2015年11月7日土曜日

鈴本演芸場 11月上席 昼の部

鈴本演芸場。昼の部。平日だが、客はそこそこ入っている。

前座は桃月庵はまぐりの「子褒め」。前座らしい素直な口調。ひらがな4文字の芸名って、めくりに書きにくいよな、と大学時代寄席文字書きの係だった私は思う。
二つ目に、真打入船亭扇里が上がる。ネタは「ぞろぞろ」。地味な噺で笑いは少ないが、お客はしっかり聴いていた。
お次はこの度二つ目に昇進した入船亭遊京。芸名に「京」の字が入っているのは、京都の某有名国立大の出身からとのこと。人呼んで、「落語界の湯川秀樹」。黒紋付きの出で立ち、初々しい。「たらちね」を一席。プロの落語家が口を揃えて言うのは、「二つ目昇進がいちばん嬉しかった」ということ。大きく飛躍してもらいたい。…昼酒が利いて、私の意識は多少飛んでましたが。
鈴々舎馬風登場。立川談志、毒蝮三太夫の思い出を語る。相変わらずしっかり笑いを取っている。口調は確かだが、足元がちょっと覚束ない。よちよちと現れ、よちおちと下りて行った。御年80、まだまだ現役で頑張ってほしい人だ。
入船亭扇辰は「目黒のさんま」。上手いねえ。さんまが食べたくなったよ。すっかり頭が白くなった。そのせいか、またはこのネタのせいか、ちょっと先代馬生を思わせる。ちょいちょい挟む現代的なくすぐりもけっこうウケておりました。
「白鳥の湖」の出囃子に乗って、三遊亭白鳥が登場。シルバー人材センターから鈴本演芸場に前座として派遣された、元落研の80歳の老人が主人公の新作(長いな)。白鳥ワールドが炸裂。大いに笑わせてもらいました。
ここでロケット団の漫才が入る。「レッドカーペットで売れた」という枕詞はもう必要ないな。三浦のボケは絶品。赤いジャケットに自信を感じる。
仲トリは桃月庵白酒。ネタは「風呂敷」。声がいい。テンポがいい。際立つ個性。そしてまだまだ余力を感じる。大器だ。これからを見続けていきたい落語家の一人。古今亭志ん朝の「風呂敷」を思い出した。
クイツキは三遊亭小円歌の三味線漫談。志ん朝の出囃子「老松」、先代小さんの「序の舞」を弾いてくれる。太鼓を叩く前座さんは林家時蔵の娘とのこと。しばし追憶に浸る。小円歌姐さん、相変わらずおきゃんでいいねえ。
お次の古今亭菊之丞は「もと犬」。最初客席で私語が多くちょっとかわいそうだったが、動じることなく噺に引き込んでいく。この人の高座姿はきれいでいいね。
春風亭正朝、「悋気の火の玉」。ベテランの味か、自在に客を掴んでゆく。明るくて軽くていいなあ。サゲの「あたしのじゃおいしくないでしょ、ふん」は声を低くして、おっかない本妻さんで演ってた。先代文楽の本妻さんは可愛かったな。
膝代わりは江戸家猫八。子猫時代はスーツを着て立っての高座だったが、猫八になって着物を着、座って芸をするようになった。猫八代々に伝わる物真似を、ソフトな解説を交え聞かせてくれる。いい気持ちでトリにつなげてくれた。
トリは入船亭扇遊。当年62歳。柳家さん喬、柳家権太楼、五街道雲助、春風亭一朝といった人たちに続く年代である。上手いよね。端正だけど爆発力に欠ける所があり、寄席の半ばだと目立たない時があるけど、こうしてじっくりトリで聴くとその良さが引き立つ。「試し酒」を35分、みっちりやって客を片時もそらすことがなかった。師匠扇橋亡き後の入船亭一門のリーダーである。今が円熟期、身体を大事にして長く活躍してもらいたい。

この芝居は実力派が多かった。落語はいいなあと改めて思いましたよ。

2015年11月4日水曜日

北の海からの贈り物


北海道の八海君から、大量の海産物が届いた。蟹、鮭、イカ、さんま、カレイ…。毎年ありがとう。
今日は、晩御飯に、蟹、さんまの塩焼き、イカのバター焼きをいただく。
このラインナップを前にすると、これはもう、昨日牛久で買って来た「神亀」を開けずにはいられない。
一口飲むと鼻腔に立ち上る芳醇な香り。それでいて喉ごしはあくまで爽やか。いやあ神亀、旨いなあ。
それに対峙して、北海の美味も一歩も引けを取らない。
子どもたちは「うんめ」を連発し、「北海道へ行きたいなあ」としきりにせがんだ。
明日はやはり送ってもらった鮭を使って石狩鍋の予定。ここしばらくは「北海道フェア」が続きそうだ。
ありがとう、八海君。皆さんによろしく。


2015年11月3日火曜日

石岡 金刀比羅神社


石岡、中町通りにある金刀比羅神社。地元では「こんぴら様」と呼ぶ。
10年くらい前かな、本殿と拝殿が火事で焼けた。
今の建物はその後再建されたものである。

古代、この辺りは広大な森林で神域だった。平安時代には、「大森大明神」の尊称で呼ばれ、この土地を治めた平氏の子女が祭主となった。森には祭祀に従事する平氏の御殿「森木殿」があり、森木寺や八大寺という寺院も付属していた。しかし、1590年の戦乱によって森は壊滅し、常陸平氏も滅亡する。
その後、神社は別当八大院によって再建され、江戸時代になると、府中松平家から、この付近の鎮守として手厚く庇護された。また当時広がった金毘羅信仰から、「金毘羅大権現」として信仰を集めるようになる。1827年に、改めて讃岐の金毘羅様から御分霊を勧請し、正式に金刀比羅神社となった。(金刀比羅社HPより要約)

今は古代の森の面影はない。旧町名、「森木町」だけがその名残だろうか。




正岡子規の句碑。
子規は明治22年、22歳の時水戸へ徒歩旅行に出て、石岡にも泊まったのだ。


2015年10月31日土曜日

四天王の時代、そして志ん朝・談志の時代

東京落語界を、その時その時を代表する落語家で表現してみる。
昭和20年代から30年代にかけては、文楽・志ん生の時代。昭和40年代から50年代の半ばにかけては圓生の時代。そして、三遊亭圓生の死後、四天王の時代というのがあった。
戦後の落語黄金時代、最初に若手四天王を提唱したのは精選落語会を主宰した矢野誠一である。彼が挙げたのは、五代目春風亭柳朝、三代目古今亭志ん朝、五代目立川談志、五代目三遊亭圓楽の4人だった。
しかし、昭和50年代半ばの四天王は、少々メンバーが入れ替わる。志ん朝、談志、圓楽は変わらないが、ここに爆笑派として売れっ子だった月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)が加わるのである。
この四天王は、川戸貞吉が言い出し、山本益博あたりが賛同したのだと思う。
本格派とは言い難い圓鏡を入れることに、当時も異論がなかったわけではない。柳家小三治は、三遊亭圓窓はどうなんだ、という声はあった。しかし、元祖四天王柳朝を推す声はあまりなかったように記憶している。その頃、柳朝は、むしろ四代目三遊亭金馬や三代目三遊亭圓歌といった人たちと同列に、ベテランとして扱われていたように思う。
月の家圓鏡が入ったのは「あえて」感がある。志ん朝、談志、圓楽といった本格派3人に、あえて爆笑派圓鏡を入れることで厚みを加え、現代性今日性の色彩を濃くしたい、といった趣旨の文章を読んだ覚えがある。
近年、吉川潮の『江戸前の男』によって、柳朝が復権を果たしたせいか、現在は、柳朝・志ん朝・談志・圓楽を四天王と呼ぶ人が多い。しかし、四天王という言葉がメディアで盛んに使われていた昭和50年代半ば(それは私の大学時代と重なる)には、志ん朝・談志・圓楽・圓鏡こそが四天王だった。 

だが、四天王の時代はあくまで過渡的なものであった。それはやがて、そのまま志ん朝・談志の時代に移行していく。
文楽・志ん生もそうだが、二人の対照的な天才が屹立する時代に巡り合うことが、いかに幸運であるか。私たちの世代は、まさに志ん朝と談志が丁々発止の鍔迫り合いを繰り広げるのを、リアルタイムで観ることができたのだ。
「団菊爺」という言葉がある。明治期の九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎を知る老人が、何かといえば「今の芝居はなっちゃいねえ、昔の団十郎は、菊五郎は…」と繰り返すのを揶揄したものだ。(桂文楽でさえ、「今でこそ文楽は、と言われているけど、圓生さん(五代目)が生きていたら、こんな噺聴いちゃいられねえ」と言われたそうだし、志ん生の噺を聴きながら楽屋では「三語楼じゃねえか」とか「圓右じゃねえか」と言う年寄りがいたらしい。)
でも、青春時代に出会った芸が、ずっとその人の基準になる。そして、繰り返しその芸の素晴らしさを語る。だから、語ることのできる(象徴としての)団十郎、菊五郎を持てるということは、この上なく幸福なものなのだ。
私は、文楽・志ん生をリアルタイムでは知ることができなかったが、残された音源によって彼らの落語に魅了され、「文楽・志ん生の時代」に憧れた。志ん朝・談志に至っては、青春期にリアルタイムで体験できた。これが私の原点だ。
文楽・志ん生時代の色川武大が、三遊亭圓生を二人より幾分低く感じると言っているように、やはり私の場合も、志ん朝・談志に続く人たちが、自分の中であの二人を超えることはないと思う。(それは小三治も例外ではない。)
しかし、私より若い人たちには、彼らの「志ん朝・談志」がいる。小朝、志の輔、談春、志らく、昇太、たい平、喬太郎、三三…、今の若い人にとっては彼らの芸こそ名人芸なのだろう。それでいいのだ。そうやって落語はいつの時代も人の心を掴んできたのだ。
私は「団菊爺」のように彼らを否定しないよ。ただ、「志の輔は志ん朝を超えた」とか言われると、「ちょっと違うんじゃない?」くらいは言いたくなるけどね。まあそれも爺の繰り言なんだろうけど。

2015年10月28日水曜日

息栖神社 その2


先日、神栖に用事があって行き、帰りに息栖神社に寄った。
鹿島神宮、香取神宮と並び、東国三社の一つに数えられる。
パワースポットブームのせいか、参拝客がけっこういたね。
前にもブログに載せたけど、あの時は写真が2枚だけだったからね。今回はもうちょっと載せてみます。


拝殿。鉄筋コンクリート製。

境内にあるお稲荷様。

力石。

芭蕉の句碑。

一の鳥居を川の方から。

もう一枚。

見えないけど、金魚が一匹泳いでた。

柳もいいねえ。


二の鳥居から一の鳥居を望む。

河岸の佇まいがよかった。その昔、参拝客は船で来たんでしょうなあ。

この日、長男は父に連れられて落語会に行った。
市民ホールでの林家たい平独演会。昨年同様、中学生はご招待。
ネタを聞くと「二番煎じ」と「愛宕山」とのこと。さすがたい平、志が高いねえ。
長男に「去年より面白かったろ?」と訊くと、「うん」と言っていた。
こういうの、大事だと思うんだけどねえ。