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2018年6月30日土曜日

昭和23年の香盤

この前の記事で香盤(芸人の序列)というのが出てきた。
昭和23年(1948年)の芸術協会と落語協会の名簿があるので見てみよう。この順番がいわゆる香盤順であろう。
まずは芸術協会から、真打のみを記す。 

*五代目柳亭左楽 六代目春風亭柳橋 初代桂小文治 三代目春風亭柳好 五代目古今亭今輔 橘ノ圓(三代目桂三木助) 八代目三笑亭可楽 四代目三遊亭圓馬 二代目桂枝太郎 四代目三遊亭圓遊 二代目三遊亭遊三 五代目柳亭燕路 柳亭痴楽 立川ぜん馬 桂文一(九代目土橋亭里う馬)

*印を付けた、左楽は別格となっている。芸術協会創設からの会長である柳橋が、やはりその筆頭となるべきであろう。この中でいちばん新しい真打ちは柳亭痴楽。あの「綴り方教室」の痴楽である。ぜん馬、文一(この年に九代目土橋亭里う馬を襲名した)は寄席にもあまり出ていなかったためか、真打の末席に連なっている。 

では落語協会。これも真打のみ。

*八代目桂文治 八代目桂文楽 五代目古今亭志ん生 二代目三遊亭円歌、六代目三遊亭圓生 蝶花楼馬楽(八代目林家正蔵) 八代目春風亭柳枝 桂右女助(六代目三升家小勝) 九代目鈴々舎馬風 翁家さん馬(九代目桂文治) 三代目三遊亭小圓朝 九代目金原亭馬生 三代目柳亭燕枝 四代目柳家つばめ 四代目立川談志 五代目三遊亭圓左 月の家圓鏡(七代目橘家圓蔵) 古今亭志ん馬(二代目古今亭甚語楼) 柳亭市馬 柳家小三治(五代目柳家小さん) 華形家八百八(六代目蝶花楼馬楽) 三遊亭歌笑 古今亭志ん橋(十代目金原亭馬生)  

文治も別格になっているが、彼は当時の落語協会会長である。本来は名実ともに筆頭であるはずなのだが、晩年、文治は寄席で売れず、出番も軽んじられており、実質のトップは文楽だった。
ここで特筆すべきは、香盤上位、文楽から馬楽までの所だ。 香盤順では①文楽、②志ん生、③円歌、④圓生、⑤馬楽(正蔵)だが、真打昇進順となると、①文楽、②圓生、③馬楽(正蔵)、④志ん生、⑤円歌、となるのである。
現在では香盤順は真打昇進順であり、それはずっと変わらないとされているが、昔は落語家の協会間の移動も多く、その度に序列も変動した。また名前の格や席亭、観客の評価なども影響したのだろう。志ん生は、昭和10年代後半の時点で文楽と並称されていたし、円歌は明るい芸風と『呼び出し電話』等の新作落語で売れに売れていた。この二人が、昭和初期に低迷が続いていた圓生と馬楽(正蔵)を抜いたのは、仲間内にとって自然なことだったのかもしれない。
しかし、三遊本流の本格派を自負していた圓生は、円歌が上にいるのが我慢ならなかったという。(円歌は地方の天狗連出身、新潟訛と吃音に苦労した人である。)
この後、落語協会の会長は、文治から文楽、そして志ん生へと移っていく。志ん生が病に倒れた後、文楽が再登板するが、その次の会長は志ん生の意向もあって、円歌を飛ばして圓生に行く。文楽、志ん生、圓生という流れ、しかも円歌を飛ばしたということは、「落語協会の会長は古典の本格派であらねばならぬ」という強烈なメッセージにもなったに違いない。

2018年6月28日木曜日

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵④

大正11年2月、四代目橘家圓蔵死去。59歳であった。
圓生は、義父圓窓が師匠の名跡を継いで五代目橘家圓蔵となったのに伴い、その名を継いで三遊亭圓窓と改名した。
正蔵は、師匠三代目三遊亭圓遊が落語家を廃業し幇間に転向したことから三遊派を離れ、三遊亭圓楽のまま三代目柳家小さんの預かり弟子となる。一時大阪へ出て二代目桂三木助の世話になるが、やがて東京へ戻り四代目蝶花楼馬楽の内輪になった。
大正14年1月、圓生は、義父の五代目三遊亭圓生襲名とともに六代目橘家圓蔵を襲名する。名前の上では順調に大きな名前を継いではいるが、それは義父のおかげ。依然圓生の低迷期は続いていた。
正蔵の方は同年8月、柳家小三山(後の五代目古今亭今輔)らと落語協会を脱退し、落語革新派を結成するが、翌年の1月に解散。あだ名となった、「トンガリ」ぶりを発揮している。
昭和3年4月、馬楽が四代目柳家小さんを襲名。その後を継いで、正蔵は五代目蝶花楼馬楽を襲名した。昭和15年1月には五代目圓生が57歳で死去。翌年の1月、いよいよ六代目三遊亭圓生が誕生する。
その頃の話として、正蔵は前回引用した「円生師匠への公開状」という文章の中で、こんなことを書いている。

 「貴方はお忘れになったかもしれないが、私は自分自身のことであるからよく覚えているが、中国との事変が少し大きくなって来た時分ですが、当時の落語協会の会長は一竜斎貞山師でしたが、この先生が、『今度協会で幹部を拵えよう。第一号としてお前がなれ』と言って、蝶花楼馬楽時代の私に白羽の矢が立った。(中略)その時に貴方が私の家においでになった。『私も親父の名前を継いで円生であるから、貴方が幹部披露をして私より地位が上になると、亡き親父の手前面目ないから何とかそこのところを宜敷く頼む』と言われたから、私もすぐに貞山師の所へ行って、『現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ、私は大幹部にはなりにくい』と言ったらば、貞山師が私の顔をジッと見て、『お前は欲のない人間だ』と言ってお笑いになったことがありました。」 

圓生と正蔵が不仲だったとは以前に書いた。その不仲の原因が、このエピソードにあったのかもしれないということは、案外知られていない。
立川談之助著『立川流騒動記』の中にこのような記述がある。以下に引用する。 

「それではなぜ円生と正蔵がそんなに不仲になったのだろうか、この騒動の最中に私はある正蔵師のお弟子さんに意外な事実を聞いた。それによると円生は正蔵より落語協会の香盤(芸人の序列のこと)が上になっているが、本来は正蔵の方が円生より一枚上だったというのである。落語の世界では序列が一枚違えばそれだけで兄弟子、弟弟子という上下関係になってしまう。それがどうして円生が正蔵よりも上になったかというと、円生が円蔵から『三遊亭円生』という大名跡を襲名する時に、当時蝶花楼馬楽だった正蔵に、
『馬楽さん、私も円生という大きい名前を継ぐんで、すまないがお前さんより私を形だけでもいいから上にしてもらえないだろうか』  
と頼んだそうである。普通の芸人なら断るところだが、人のいい正蔵は、
『ああ、あたしは構わないよ』 とうっかり承諾してしまったというのである。それがこれ以来ずっと協会の順列になってしまったのである。」 

二人の証言を並べてみると、ちょっとした違いがある。正蔵の記述では「現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ」とあるが、談之助の方は「本来は正蔵の方が円生より一枚上だった」としてある。ここは本人が言っているのだから、当時の香盤は圓生の方が正蔵よりも一枚上、しかし正蔵が幹部に抜擢されて圓生を抜きそうになったので、抜かないように圓生が頼みに行ったというのが真相だろう。
とはいえ、その後の次に続く談之助の分析は鋭い。 

「正蔵は本来自分の方が上だと思っているから、円生に対して遠慮しないでずけずけと物を言う。円生はたとえ譲ってもらったとしても香盤上では自分が上であり、芸の上でも逆転したという自負があるので面白くないという図式で、いつの間にか2人は犬猿の仲になってしまったというのである。つまり円生の落語協会脱退の真の原因は、正蔵がバックの小さんと、正蔵嫌いの円生の代理戦争だったという訳なのだ。」 

さらに正確を期すとすれば、正蔵はあくまで圓生を対等に置いていた。入門では先輩だが、年は5歳も上、しかも同時期に真打ちに昇進、その若手の売り出し時期に、二人ともそろって下手だと酷評されていた。そこに、圓生に対する正蔵の遠慮のなさがあったのだと思う。
一方、圓生から見れば、「芸の上で逆転した」といった意識もなく、芸の上では常に正蔵など眼中になかったのだと思う。彼が張り合っていたのは、むしろ正蔵より上の、文楽や志ん生だったのだから。そんな正蔵に香盤を抜いてくれるな、と頼みに行ったこと自体、圓生にとっては屈辱だったのだろう。そして、それを正蔵があっさり受け入れたからこそ、圓生のプライドはいっそう傷ついたのではないか。
人間というのはつくづく難しいものだねえ。

2018年6月26日火曜日

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵③

正蔵が一朝爺さんから三遊亭圓楽をもらったのが大正8年(1919年)。翌年には圓楽のまま真打ちに昇進する。その当時の圓生との交友を、彼はこんなふうに語っている。

「そうこうするうちに私も円楽と名前をまた変えまして、落語研究会の前座に使ってもらうことになった。そうすると貴方も落語研究会の会員になって、我々と席はそう違わないところにいたわけですね。落語研究会の若手に円楽という者があり、その時分、貴方は小円蔵か円好というお名前で、私と“読まんどし聞かんどし”という間柄で研究会の末席に連なっている。そうすると聞いている人、その時分の評論家の的になるのは貴方と私。落語研究会という権威のあるところにどうしてこんなへたな奴が出るのだろうというのが評判記の要領なんですねえ。それほどはたの者が上手かったと言えるんですが、何時も今の言葉で言えばケチョンケチョンにやっつけられる。完膚なきまでに打ちのめされるのが二人だったんで、その時代を顧みて懐かしくないことはありませんねえ。」(『噺家の手帖』1982年3月6日 一声社刊中、「円生師匠への公開状」より)

落語研究会は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で中絶となるので、大正8年頃からほぼ4年ぐらいの話であろう。
二人は同じ大正9年(1920年)に真打ちに昇進し、そして同時期に落語研究会に若手として出演を果たす。この時点でライバル同士だったと言っていいのではないか。
『古今東西落語家事典』(平凡社刊)には、大正8年5月11日の落語研究会プログラムが載っている。会場は日本橋宮松亭。その演目と出演者を列記してみよう。

       ・真田小僧  橘家小圓蔵(六代目三遊亭圓生)
   ・鬼面散   蝶花楼馬楽(四代目柳家小さん)
   ・一目上がり 翁家さん馬(八代目桂文治)
   ・山崎屋   柳家つばめ(二代目)
   ・おもと違ひ 三遊亭金馬(二代目)
   ・心眼    三遊亭小圓朝(二代目)
   ・碁どろ   柳家小さん(三代目)
   ・お七    三遊亭圓窓(五代目三遊亭圓生)
   ・あくぬけ  橘家圓蔵(四代目、俗に「品川の圓蔵」)
   ・巌流島   三遊亭圓右(初代、二代目三遊亭圓朝を襲名)

この時は小圓蔵時代の圓生がサラを務めている。なるほど、錚々たる面子だ。初代圓右、三代目小さん、四代目圓蔵は健在。後の五代目圓生、四代目小さん、八代目文治がそれに続く。大正から昭和初期にかけての名人上手がズラリと並んでいる。
この時期、圓生は「皮ばかりで肉のない芸」、正蔵は「骨ばかりで肉のない芸」と言われて酷評された。正蔵は圓生を自らと同列に語り懐かしんでいるが、圓生からすれば、それは思い出したくない過去だったのではないか。

2018年6月24日日曜日

梅雨のお休み


昨日の日記。
朝、パン、目玉焼き、ウィンナー、紅茶。一日中雨が降ったりやんだり。
午前中、妻と次男がお出かけ。長男は来週テストだと言って家に籠る。
八代目桂文楽の『鰻の幇間』をレコードで聴く。1967年(昭和42年)の録音。噺の後には対談が付いている。鰻屋の掛け軸が「応挙の虎」というのは受けが少ないかもしれないが、味わい深い。この黒門町の型は、今六代目柳亭左楽が受け継いでいる。
昼ぐらいは外に出ようと、長男と丸亀製麺に行く。カレーうどん、メンチカツ、高菜のおにぎり。旨し。
午後は森田童子の『夜想曲』のCDを聴く。童子のオリジナルアルバムでは、これだけ持っていなかった。当時どうしてレコードを買わなかったのか、と今さらに思ったが、改めて聴くと、ラスト曲が前のアルバムと同じ「ラスト・ワルツ」だったからなんだな、と思い出す。
夕方、妹夫婦と甥っ子が来て、皆で飲む。親父が一緒に飲みたくて企画した飲み会。魚屋の刺身(鰹と鮪)に、妹が作って来た鶏のやわらか煮、じゃがいもをふかしたのなんてのをつまみに、ビール、酒。酒を一升空けた所でお開き。我々も分別が付くようになったものだな。
寝しなに八代目林家正蔵『生きている小平次』を聴く。

今日の日記。
朝は御飯、味噌汁、卵のソーセージの炒め物、納豆。
午前中、雨。
キース・ジャレット、ソロコンサートのLPレコードを聴く。雨によく合うね。
昼はそうめん。
午後は晴れる。本屋に行く。清水潔著、『「南京事件」を調査せよ』(文春文庫)を買う。面白い。
皆で『世界の果てまでイッテQ』の録画を見る。
夕方、妻とハートランドビール。
夕食は餃子、麻婆茄子でビール、酒。
夕焼けがきれいだった。




2018年6月23日土曜日

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵②

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵について、もう少し語る。
この二人の不仲は有名だった。あの、落語協会分裂騒動も、本当の原因は彼らの確執からだったと言われている。
では、この二人は落語家としてどのようなキャリアを辿ったのか。その辺りのところから見てみたいと思う。 

正蔵は1895年(明治28年)生まれ。圓生が1900年(明治33年)生まれだから、5歳年長。年代的には圓生よりも三代目三遊亭金馬(1894年生まれ)の方が近い。
ところが、落語家への入門となると話は違ってくる。
圓生は1909年(明治42年)、9歳で四代目橘家圓蔵に入門した。彼はそれより以前、1905年(明治38年)頃から子供義太夫として圓蔵の身内として寄席に出ていたが、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、義太夫を語ると早死にをすると医者に言われて落語家に転向したのだ。子供落語家ということで前座の修行はなく、二つ目でのデビューだった。
正蔵は1912年(明治45年)、三遊亭三福(後の三代目圓遊)に入門。1917年(大正5年)頃に師匠とともに四代目橘家圓蔵の身内になる。落語家としては、圓生は正蔵の同門の先輩であった。
しかも圓生の母親が、四代目圓蔵門の俊才、三遊亭圓窓と再婚していた。後に圓窓は師匠圓蔵の死後、すぐに五代目圓蔵を継ぎ、さらには三遊亭の最高峰、圓生の五代目を襲名することになる。こうして圓生は三遊本流の御曹司になっていくが、それに対し、正蔵はあくまで外様の弟子。圓生から見れば取るに足りない存在だったことは容易に想像できる。
 暉峻康隆の『落語藝談』の中で、圓生は三代目三遊亭圓馬の稽古について思い出話をしているが、後の四代目柳家小さんなどの大人をしり目に「覚えるのはあたしがいちばん早く覚えちゃう」という。実際、圓馬は子供の圓生を引き合いに出して、小さんを叱った。当時の圓生にとって、視界に入っていたのは、文楽・志ん生よりもさらにひと世代上の四代目小さんたち。正蔵など眼中にない。
一方、正蔵は下座のお婆さんの勧めで、当時圓楽だった三遊亭一朝のもとへ稽古に通うようになっていた。一朝は、名人三遊亭圓朝の弟子。ここで正蔵は、圓朝譲りの人情噺、芝居噺、怪談噺を吸収していく。
圓生は、1920年(大正9年)3月、橘家圓好で真打ちに昇進した。同年6月、正蔵も真打ちに昇進。その前年に彼は、一朝から三遊亭圓楽の名前を譲り受けていた。

*訂正  
 元記事で圓生の真打ち昇進を大正4年(1915年)としてしまいましたが、これは間違い。小圓蔵と改名した年と取り違えてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。

2018年6月21日木曜日

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵①

私が子どもの頃、落語界の長老と言えば、落語協会では六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵、芸術協会では六代目春風亭柳橋と五代目古今亭今輔だった。
ここでは圓生と正蔵について話をしたい。 
この二人、八代目桂文楽と五代目古今亭志ん生のように、ライバルだったとは言い難い。芸の評価としては、どう見ても圓生の方が上だったからだ。子どもの私でさえもそう思った。

立川談志は『談志絶倒昭和落語家伝』の中で、圓生の芸についてこのように語っている。
 「一口にいうと『昭和の名人』、最後の大名人である。現代でも落語の形式を上手に演じる人はいるが、円生師匠の広い守備範囲、攻撃範囲には敵わない。
  声も、あのいい声の中音で、音曲が唄えて、子供の頃『豆義太夫語り』だったから、義太夫は勿論いける。大阪にいたから大阪弁もいける。したがって、音曲噺、芝居噺、滑稽噺、人情噺、短い噺、ばかばかしい噺、何でもいけた。  
 演目は一番多く、それも桁違いであった。(中略)一つ一つが群を抜いている。極端にいえば“非の打ちどころがない”ということだ。見事である。上手くて面白くて、ばかばかしい。」
絶賛と言っていい。意外なようだが、談志の一つの理想形が三遊亭圓生にあったのは間違いないと思う。
それに対し、正蔵には厳しい。同じ『談志絶倒昭和落語家伝』から。
「高座では、大幹部として扱われていたが、“感情注入が下手”という欠点があって、聴いていて面白くない。したがって、余興に演る茶番、これも感情が入っていないから面白くない。」
『談志 名跡問答』でも、
「(対談相手の福田和也に、正蔵のどの辺が下手だと感じたのか、と訊かれ)どの辺と言うより、曰く下手。(中略)いわゆる『噺の間』がワルい。これは噺家として、その頃は決定的だ。」と言っている。
私が子どもの頃感じた正蔵の面白くなさが、一つ一つ的確に指摘されている。
しかし、このままで終わったのではフェアではない。談志はこうも続けているのである。
 「けど、この師匠が、客が少ないとき、人形町末広でとろとろとろとろ演ってるとき、“受けよう”という勘定なしに喋ったときは素晴らしかった。」(『談志絶倒昭和落語家伝』より)

私が40ちょっと前の頃、両国の江戸東京博物館で「大落語展」というイベントがあった。
この時に壮年時代の正蔵の映像を見た。ネタは「五人廻し」。これが面白かった。口調が滑らかでテンポがよく、剽軽なフラがある。正蔵ってこんなに面白かったんだ、と私は思った。
圓生は落語を「演ずる」。緻密な演出のもと、登場人物は一人一人、巧みに演じ分けられる。一方、正蔵の落語は「語り」だ。彼の語りを通して、物語が力強く立ち上る。抒情の圓生に対し叙事の正蔵。「生きている小平次」、「ステテコ誕生」、「笠と赤い風車」・・・、改めて聴く正蔵はいい。

2018年6月17日日曜日

岐阜県特派員報告

「松風亭日乗」岐阜県特派員T君からメールが来て、東濃地方の見どころをレポートしてくれた。 以下に掲載する。

      *  *  *

未だに見ていないが、ドラマ「半分、青い」はかなり話題になっているようだ。瑞浪高校の先生が「学校前の坂の桜並木でロケをした」と言っていた。
また主人公の故郷のモデルが恵那市岩村で、観光客で賑わっているとか。
岩村と言えば、女城主(信長のおばにあたるらしい)の里であり、日本三大山城であり、かの佐藤一斎の出身地である。松浦軒の昔風カステラが名物で、地酒「えなのほまれ」も、ぬる燗が最高。語り出すと長くなるので、詳しくはWebで。

さて岩村から明知鉄道に乗り、終着駅が明智である。
明智光秀の一族が住んでいたと言われる明智城があるが、城主は遠山氏で、光秀とは関係ないようだ。遠山氏は後に旗本になり、「遠山の金さん」が出ている。
明智と言えば、大正村で、大正期を思わせる古い建築物が残っている。明治村のように一流どころを集め、料金を取るのではなく、建築物は街に散在し、有料施設は一部だけである。
大正村には歴代村長がおり、初代高峰三枝子、二代司葉子、そして三代目が竹下景子である。竹下景子が大正村村長?私も年を取る訳である。
最初は郵便局、現役と言いたいが、現役は隣に設置されている。


銀行はそれらしく造 った、なんちゃって大正ロマンである。


その近くにある「またほん商店」には風格がある。


東濃から長野県南部にかけては、黒スズメバチの幼虫を食べる習慣があり、こんな案内も出ている。


さて、今回の目玉は、2つの不思議な喫茶店である。
まずはこちら。


看板に「ねこのくつろぎや」とあるが、いったい…?店が閉まっていて、中の様子は見られなかった。残念ながら、正体は謎のままである。
続いて、道路を渡り廊下が横断している珍しい建築物を撮影していたら、その下にレトロな喫茶店を見つけた。



よく残しておいたものだと思っていたら、「営業中」とある。入ってみたかったが、二度と帰れない嫌な予感がして、あきらめた。

読者諸賢には、恵那から明知鉄道に乗り、極楽駅で途中下車、続いて岩村の観光を楽しみ、最後に明智で2つの喫茶店の謎を暴くツアーをお薦めしたい。

   *  *  *

NHKの朝ドラも、昨年が茨城の「ひよっこ」で、今回が岐阜県の「半分、青い」ですか。何だか縁を感じますなあ。