六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵について、もう少し語る。
この二人の不仲は有名だった。あの、落語協会分裂騒動も、本当の原因は彼らの確執からだったと言われている。
では、この二人は落語家としてどのようなキャリアを辿ったのか。その辺りのところから見てみたいと思う。
正蔵は1895年(明治28年)生まれ。圓生が1900年(明治33年)生まれだから、5歳年長。年代的には圓生よりも三代目三遊亭金馬(1894年生まれ)の方が近い。
ところが、落語家への入門となると話は違ってくる。
圓生は1909年(明治42年)、9歳で四代目橘家圓蔵に入門した。彼はそれより以前、1905年(明治38年)頃から子供義太夫として圓蔵の身内として寄席に出ていたが、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、義太夫を語ると早死にをすると医者に言われて落語家に転向したのだ。子供落語家ということで前座の修行はなく、二つ目でのデビューだった。
正蔵は1912年(明治45年)、三遊亭三福(後の三代目圓遊)に入門。1917年(大正5年)頃に師匠とともに四代目橘家圓蔵の身内になる。落語家としては、圓生は正蔵の同門の先輩であった。
しかも圓生の母親が、四代目圓蔵門の俊才、三遊亭圓窓と再婚していた。後に圓窓は師匠圓蔵の死後、すぐに五代目圓蔵を継ぎ、さらには三遊亭の最高峰、圓生の五代目を襲名することになる。こうして圓生は三遊本流の御曹司になっていくが、それに対し、正蔵はあくまで外様の弟子。圓生から見れば取るに足りない存在だったことは容易に想像できる。
暉峻康隆の『落語藝談』の中で、圓生は三代目三遊亭圓馬の稽古について思い出話をしているが、後の四代目柳家小さんなどの大人をしり目に「覚えるのはあたしがいちばん早く覚えちゃう」という。実際、圓馬は子供の圓生を引き合いに出して、小さんを叱った。当時の圓生にとって、視界に入っていたのは、文楽・志ん生よりもさらにひと世代上の四代目小さんたち。正蔵など眼中にない。
一方、正蔵は下座のお婆さんの勧めで、当時圓楽だった三遊亭一朝のもとへ稽古に通うようになっていた。一朝は、名人三遊亭圓朝の弟子。ここで正蔵は、圓朝譲りの人情噺、芝居噺、怪談噺を吸収していく。
圓生は、1920年(大正9年)3月、橘家圓好で真打ちに昇進した。同年6月、正蔵も真打ちに昇進。その前年に彼は、一朝から三遊亭圓楽の名前を譲り受けていた。
*訂正
元記事で圓生の真打ち昇進を大正4年(1915年)としてしまいましたが、これは間違い。小圓蔵と改名した年と取り違えてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。
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