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2018年6月7日木曜日

古今亭志ん朝が語る、落語協会分裂騒動

1994年1月20日発行の雑誌『Switch』は、「落語の粋を生きる」と題する古今亭志ん朝の特集号であった。
この中の「古今亭をめぐる冒険」(文:濱美雪)という、志ん朝へのインタビューをもとにした記事で、落語協会分裂騒動について語っている部分がある。貴重な記録なので紹介したい。
では、志ん朝の立場から、あの事件を振り返ってみよう。

「ええ・・・あれはですね、結局、亡くなった円生師匠と正蔵師匠との揉め事に、おっちょこちょいのあたしなんかが絡んじゃったということなんですよ。
 円生師匠が会長を引いたあと、小さん会長が自分の政策をいろいろ始めた。それが円生師匠はお気に入りじゃなかったんですよ。  
 で、折しも、正蔵師匠がご自分の弟子を真打ちにするについてお宅のお弟子さんも一緒にって円生師匠に言ったんだけど、大勢をいっぺんに真打ちにすることに初めっから反対していた円生師匠は断った。また正蔵師匠のほうも引かない。  
 で、理事会で採決を取ったら円生師匠の意見が通らないんで、円生師匠が協会をやめると言い出した。そのときに、ま、ある男が円楽さんやあたしなんかを集めて『円生師匠がやめるなんてのはとんでもない話だ。黙って見ていては駄目だ。俺たちは行動を共にして三遊亭を頭に置いて協会をこしらえよう。』って言った。それがきっかけで三遊協会というのが発足したんです」

簡潔に事件の背景が語られる。何人か登場する中で、一人だけ「ある男」と名前が伏せられている。これが立川談志だということは明らかだ。やはりこの騒動の起点は談志だったか。敢えて名前を伏せたのは、志ん朝の配慮か、あるいは屈託か。

「新たに協会をこしらえると、落語協会と落語芸術協会と会が三つになる。三つできればお互いに競い合うのと、いっぱい増えてきた二つ目さんの高座がある程度確保できる。一年も高座に上がれないような二つ目がいなくなる。俺はそういういい方にとった」

落語家にデビューして以来、志ん生の息子ということで何かと引き立てられたことに、志ん朝自身負い目のようなものがあったという。それが恵まれない若手への思いとなったか。二つ目に高座の機会を与えられる、それが志ん朝を新協会設立に向かわせた最大の動機だった。
しかし反旗を翻された落語協会はもちろん、結果出番を減らされる芸術協会も強硬に反発した。理屈では正しいのかもしれないが、人の情として受け入れがたいことというのはあるものなのだ。

「僕の考えは間違っていたとは思わないんだけどもケンカの仕方がね、向こうが支度していないのにいきなり石投げたり、戦争の仕方が間違ってた。あんな中途半端なかたちでなく、もっときちっと三遊亭を助けてさしあげられるようなやり方があったと思うんだけど、自分の判断力がないから人にそそのかされたという感じのまんま『そうだ!』って気持ちばかり高ぶって馬鹿なことしたなって、今でもそれは思います。他の人たちには思わないけど、『次期会長は志ん朝さん』とまで言ってくださった三遊亭の師匠には力足らずで申し訳なかったと、この僕は思います」

この時、志ん朝は55歳。「自分の判断力がないから人にそそのかされたという感じのまんま『そうだ!』って気持ちばかり高ぶって馬鹿なことしたな」と自らの若さ振り返っている。騒動の頃はまだ40歳だったのだ。

「もう、ほんとうに一番嫌だったのは、本家の落語協会に反旗を翻して負けて戻ったわけだから、ペナルティーを受けたいわけですよ。それがなかったのは、とてもなんか寂しいとこでしたね。それと家族に引き戻されたこと。  
 あたしはそれまでずうっと自分の思いどおりに世の中を進もうと思ってやってきた。それが初めて自分の思いを覆されて、しぶしぶというか泣く泣く向こうの意見に従った。  昔連合赤軍が浅間山荘に立てこもったとき、母親がきて説得してた。こもってる連中にしてみれば、あれは嫌だろうと思う。もうそこまで行っちゃったんだから覚悟してやってる。世間には迷惑かけるけど、でも男の気持ちから言うと、あれはやっぱりやらしてあげたいね。  
 でも俺が『あ、もう駄目だ』と思ったのは、寄席が最終的にどこも賛成してくれなかったとき。そうなると俺のやる意味がない。降参するしかない。でも円生師匠は、これからは寄席の時代じゃないみたいなことをおっしゃった。あたしの考えは、寄席がある間はあくまで寄席が大事なんですよ。  
 でも、まず円生師匠の意見をもっと聞こうって訴えるべきだった。とことん訴えてどうしても駄目ということになってから事を起こせばよかった。気がはやったねえ」

「あらぬ一点を見つめるようにして一気に志ん朝は言った」と濱美雪は書いた。志ん朝にとって、この騒動から受けた傷は15年経ったこの時でも疼いていたのだろう。
三遊亭圓丈は『師匠、御乱心!』のあとがきの中で、志ん朝の〈それから〉についてこう書いている。
「そして、志ん朝師とは亡くなるまで随分会ったが、以前は、いつも笑いながら『ぬうちゃん元気!』と言っていた志ん朝は、あまりしゃべらない、静かな人になっていた。
 志ん朝は分裂騒動で、三遊協会に行ったのを悔やんでいるのではと思った。三遊協会のことは死ぬまで一言も話さなかった。多分、あの事件は思い出したくないコトだったんだと思う。」
それを踏まえると、この記事は本当に貴重な記録である。

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