正蔵が一朝爺さんから三遊亭圓楽をもらったのが大正8年(1919年)。翌年には圓楽のまま真打ちに昇進する。その当時の圓生との交友を、彼はこんなふうに語っている。
「そうこうするうちに私も円楽と名前をまた変えまして、落語研究会の前座に使ってもらうことになった。そうすると貴方も落語研究会の会員になって、我々と席はそう違わないところにいたわけですね。落語研究会の若手に円楽という者があり、その時分、貴方は小円蔵か円好というお名前で、私と“読まんどし聞かんどし”という間柄で研究会の末席に連なっている。そうすると聞いている人、その時分の評論家の的になるのは貴方と私。落語研究会という権威のあるところにどうしてこんなへたな奴が出るのだろうというのが評判記の要領なんですねえ。それほどはたの者が上手かったと言えるんですが、何時も今の言葉で言えばケチョンケチョンにやっつけられる。完膚なきまでに打ちのめされるのが二人だったんで、その時代を顧みて懐かしくないことはありませんねえ。」(『噺家の手帖』1982年3月6日 一声社刊中、「円生師匠への公開状」より)
落語研究会は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で中絶となるので、大正8年頃からほぼ4年ぐらいの話であろう。
二人は同じ大正9年(1920年)に真打ちに昇進し、そして同時期に落語研究会に若手として出演を果たす。この時点でライバル同士だったと言っていいのではないか。
『古今東西落語家事典』(平凡社刊)には、大正8年5月11日の落語研究会プログラムが載っている。会場は日本橋宮松亭。その演目と出演者を列記してみよう。
・真田小僧 橘家小圓蔵(六代目三遊亭圓生)
・鬼面散 蝶花楼馬楽(四代目柳家小さん)
・一目上がり 翁家さん馬(八代目桂文治)
・山崎屋 柳家つばめ(二代目)
・おもと違ひ 三遊亭金馬(二代目)
・心眼 三遊亭小圓朝(二代目)
・碁どろ 柳家小さん(三代目)
・お七 三遊亭圓窓(五代目三遊亭圓生)
・あくぬけ 橘家圓蔵(四代目、俗に「品川の圓蔵」)
・巌流島 三遊亭圓右(初代、二代目三遊亭圓朝を襲名)
この時は小圓蔵時代の圓生がサラを務めている。なるほど、錚々たる面子だ。初代圓右、三代目小さん、四代目圓蔵は健在。後の五代目圓生、四代目小さん、八代目文治がそれに続く。大正から昭和初期にかけての名人上手がズラリと並んでいる。
この時期、圓生は「皮ばかりで肉のない芸」、正蔵は「骨ばかりで肉のない芸」と言われて酷評された。正蔵は圓生を自らと同列に語り懐かしんでいるが、圓生からすれば、それは思い出したくない過去だったのではないか。
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