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2024年7月5日金曜日

正嗣の餃子

宇都宮、餃子専門店「正嗣」。

妻が職場で栃木にいた人から「お勧めです」と言われてきた。

「宇都宮に餃子を食べに行こう」となった時、当然、「では正嗣に行こうではないか」となったのである。

「正嗣」は何店舗かあるが、駐車場がありそうなここにした。


メニューは、焼き餃子と水餃子のみ。ライスすらない。餃子だけをひたすら食う、それが宇都宮の流儀なのだな。

私たちも、焼き餃子と水餃子を、それぞれ2人前ずつ頼む。

これが1人前ずつ

餡には味が付いていて何もつけなくても旨い。キャベツの甘みが利いている。しつこくない。

焼き餃子一人前290円

水餃子一人前290円

お持ち帰りの客もひっきりなしにやって来る。一人で何十人前も頼んで行く人もいた。

少食の妻は食べ切れなくて、残りを私にくれた。私もそれで満腹になる。私たちは二人トータルで二人前なんだね。

お土産に五人前、冷凍を買って帰る。そろそろ本場の餃子を家でもいただきましょうかね、 

2024年7月3日水曜日

桂文楽の「もう一人の師匠」

八代目桂文楽には、入門した師、初代桂小南、芸の上での師、三代目三遊亭圓馬、人生の師、五代目柳亭左楽がいるが、実はもう一人師匠がいる。

それは、八代目桂文治。本名、山路梅吉。明治16年(1883年)1月21日生まれ、昭和30年(1955年)5月20日没。享年72歳。

著書『あばらかべっそん』で八代目桂文楽は彼との縁をこう語っている。

「久し振りに東京へかえると、大阪から桂才賀改め翁家さん馬師がかえって来ていて、大した人気です。このさん馬師が先年なくなった八代目の文治師匠です。私はこの文治師の弟子になって、翁家さん生の名をもらいました。」

文楽がさん馬門下になったのは大正5年(1916年)、翌年には翁家馬之助の名で真打昇進が決まった。

しかし、その年、東京寄席演芸会社設立に伴い、反対派が睦会を結成、東京落語界は大きく二分されることになった。さん馬は睦会に参加することを約束しながら、それを反故にして会社に残留する。若かった文楽はそれを許せず、さん馬門下を飛び出し、睦会の副会長、五代目柳亭左楽の下に走った。左楽は文楽を睦会で翁家馬之助として真打に昇進させた。「翁家」のままで文楽を身内にしたところに、左楽の懐の深さが見て取れる。

文楽の、さん馬門下から左楽門下への移籍のいきさつは以上の通りだが、もともと文楽は、このさん馬とウマが合わなかったらしい。

文楽は『落語藝談』という本の中で暉峻康隆相手に「あたくしのほうで嫌いになったわけです」と断言している。

理由としていくつかエピソードが紹介されている。曰く、文楽が持っていった手土産を子どもにやらず独り占めしてしまう。曰く、噺の欠点(鼻をくしゃくしゃする癖、突然突拍子もない声を出す、かと思うとお客に聞こえないような声でしゃべる等)を指摘されると「そういうところがわからない人は落語を聞く資格がない」とつっぱねる。曰く、弟子相手のお遊びの博打でいかさまをする。文楽の言を信じれば、はっきり言って、ケチで偏屈でセコい人柄だったのだろう。

以後文楽は五代目左楽を終生「人生の師」と呼ぶことになる。

一方、さん馬は大正11年(1923年)、八代目桂文治を襲名、東京落語界を代表する一人となった。

五代目柳家小さんは、『芸談・食談・粋談』の中で「昭和の名人」として、まっ先にこの文治を挙げる。対談相手の興津要が「たいへんにくさかったけれども」と水を向けると、小さんは「だけど、あれだけくさくやれるってえことはたいへんですよ」と切り返している。

文楽は、前述の『落語藝談』で、「それで腕は立派なんです。それでね、その時分に独演会をすることになったら、あのくらい打ってつけの人はいなかったです。とにかくふつうの落語がいけて、人情咄がいけて、それから芝居咄がいける。この三席でもう立派なもんですよ。これがほんとうの独演会ですよ。その時分の」と言っている。文楽も文治の芸は認めていたのだ。芸の幅が広いとはいえない文楽の言葉に、ひどく説得力がある。

文治の芸をもっともよく伝えているのは、Super文庫『落語名人大全』収録の榎本滋民による解説だろう。次に全文を引用する。

 母親が連れ子をして六代目文治の後妻になった縁があるにしても、落語史上に輝く大名跡をつぎ、桂派の宗家となって家元と尊称を奉られ、昭和二十二年という終戦直後の複雑微妙な芸能界再編成期に、落語協会の会長に推された人物が、凡庸であるはずがない。

 枕から本題にかかるあたりで過度に音量を低め、登場人物の喜怒哀楽には奇声を発し、落ちを念入りに押すようにつける語り口に寄せられた、納まり返った名人きどりが鼻につく、あくと粘りが強くてもたれるといった批評は、全く不当とはいえないまでも、謙虚な姿勢と淡白な演出を過大評価した時代風潮の影響も、認めないわけには行かないだろう。

 祇園囃子をまじえて江戸・京都・大阪三都のことばを鮮やかに使い分ける『祇園会』の話術の確かさ、義太夫語りだった前身につちかわれた『夜桜(義太夫息子)』の風味の奥行きは、由緒ある桂文治の資格にかなう、まぎれもない大看板のものであった。

昭和26年に東京新聞社から出た『藝談』では、初代中村吉右衛門、徳川無声、長谷川一夫などの名優、スターが登場する中、落語界からは文楽と古今亭志ん生が選ばれている。この二人が当時の落語界の双璧だったことがうかがえる。電通の社員だった小山観翁は、当時文楽・志ん生が9000円のギャラをもらっていたのに対し、文治は若手だった小さんと同ランクの5000円だったと言う。『藝談』で文楽は「落語協会副会長」と紹介されている。

昭和22年(1947年)、四代目柳家小さん急死の後を受けて、落語協会会長に就任して以来、文治は、自らの死までの8年間、会長であり続けた。

晩年は寄席でも重用されず不遇だった。その文治よりも、文楽の方に力があったと見るのが自然であろう。協会運営における実権は副会長の文楽にあったのではないかと、私は思う。文治の死後、会長の座に就いたのは、八代目桂文楽であった。

八代目桂文治。本名から「山路の文治」と呼ばれた。住まいから「根岸の師匠」とも。四代目小さんがつけた「写真の原板」「茄子」というあだ名も残っている(文治は色黒で顔が長かった)。他に「会長」「家元」という尊称もあった。

こんなに多くの呼び名がある落語家を、私は他に知らない。

出囃子は「木賊刈り」。「家元」で「木賊刈り」と言えば、立川談志を思い出す。余談だが、談志も後輩落語家相手に麻雀でいかさまをやっていたと金原亭伯楽が書いていた。

談志が出した『談志絶倒・昭和落語家伝』という本の中に、田島勤之助が撮影した、死ぬ前の年の文治の写真が載っている。とても味わい深い、いい顔をしている。談志の文章も(余計な自慢めいたものが入るものの)愛情がこもっていてなかなかいい。

談志の『ゆめの寄席』というCD集に、文治の『夜桜』が入っている。何度聴いても私にはなじめない。だけど、貴重な音源を世に出してくれた談志には、深く感謝したいと思う。

2024年7月1日月曜日

水無月祓

近くの神社で水無月祓の茅の輪が出ているので、散歩がてらお参りに行く。


静かな境内。家内安全無病息災を祈りつつ茅の輪をくぐる。


ぶらぶら歩いて帰る。蓮の花が美しい。



豆に血尿の兆候あり。医者に連れて行く。検査をしたら結石があるとのこと。食餌療法を始める。餌代が飛躍的に上がる。



2024年6月28日金曜日

栃木県の火の見櫓

国道123号線沿いにあった火の見櫓。

宇都宮に入る前、市貝町か芳賀町で見つけた。

民家の塀にまたがって立っている。

同乗していた妻と、火の見櫓が先か、塀が先か、で論争になる。妻は「火の見櫓が先」を主張。塀が低めということもあり、「火の見櫓が先」で話がまとまる。


屋根の装飾が素晴らしい。

「何で火の見櫓なんか撮るの?」と妻が訊く。「いずれなくなっちゃうからさ」と答えると、「そういうとこ、子どもたちにもあるよね」と指摘された。

 

2024年6月24日月曜日

宇都宮に餃子を食べに行く

土曜出勤のため、今日は代休。月曜日は妻も仕事が入っていない。これはお出かけしよう、というので、宇都宮へ餃子を食べに行く。

うちから宇都宮へは、まずは笠間に出て峠を越えて行くルートがいちばん近い。

途中、笠間の道の駅でトイレ休憩をとる。ついでに二人でソフトクリームを食べる。妻は栗のミックス、私は季節のソフト(メロン)を選ぶ。一挙にお出かけ感が増す。


一昨日梅雨に入った。例年より二週間遅い。昨日までの雨から一転、晴れて暑くなる。予報では猛暑日。茨城県に熱中症警戒アラートが発令される。

笠間バイパスを快調に飛ばし、仏の山峠を越えて栃木県へ。茂木、益子辺りの風景はちっとも変わらないなあ。

宇都宮に入る手前で火の見櫓発見。すかさず、カメラに収める。


11時30分頃、宇都宮市の餃子専門店正嗣に到着。


店内はカウンターのみ。メニューは焼き餃子と水餃子の二つ。「ライスもビールもありません」と断り書きがしてある。

焼き餃子と水餃子を二人前ずつ頼み、妻と食べる。餡に味が付いていてそのままでも食べられるが、ちっともしつこくない。いくらでも食べられる。旨し。


せっかくだから駅の方にも行ってみよう。


東口の駐車場に車を止め、駅前の真新しいショッピングモールに行ってみた。

駅には最新式の路面電車が止まっていた。


13時頃、宇都宮を出る。帰りも一般道をたらたらと行く。

途中、閉店したレストランを見つけて写真を撮る。見るからに昭和のテイスト。


看板がいいんだよねえ。

15時頃、帰宅。

妻と『光る君へ』の録画を観る。その後は『虎に翼』を1週間分観た。そうか、お母さん亡くなったのか。もう滂沱の涙。

夕食は白身魚のフライ、肉じゃがでビール、酒。デザートはメロン。茨城オリジナルの「イバラキング」。旨し。食後にカティーサーク。


庭の桔梗が咲き始めた。


アジサイは今が盛り。


いい休みだった。外気温は35℃だったけど、車内は冷房が効いて快適。やっぱりドライブはいいなあ。

2024年6月18日火曜日

近況報告

長男のパソコンが故障して修理に出している。

その間、私のパソコンを貸しているので、なかなかブログが更新できない。

まあ、息子は勉強のためで、私は遊びで使っているのだから、しょうがないわな。


この前の日曜は、父の誕生祝い兼父の日で、妹一家と合同で宴会をした。カスミでオードブルと刺身を買い、妹と妻で父の好物の天ぷらを揚げた。プレゼントには見事に酒が並ぶ。私たちが買った「御慶事」と甥が買って来た「久保田」を飲む。旨し。妻手製のチーズケーキでシメる。

子どもたちからは仕事用のポロシャツをもらった。ありがとう。



とりあえず近況報告。豆ちゃんの写真でお茶を濁す。

2024年6月13日木曜日

霞ケ浦の風に吹かれて

この前の土日、二日続けて霞ケ浦の堤防に行って湖面を眺めてきた。

職場の前線で頑張っていた頃には、心が弱った時にそうしたものだった。

毎日遠くから眺めているし、最近はすっかりご無沙汰だったのだが、長男がコロナだったこともあり、ふと「霞ケ浦を見に行こうかな」と思い立ったのである。

やっぱり水際に座るのはいい。風に吹かれ、水音を聞く。湖面ではひっきりなしにボラが跳ねている。自分がこの世界の一部であることが実感できる。

土曜日は、湖畔公園近くの堤防に座った。

対岸は行方市玉造。この辺りはその昔、大規模干拓事業の計画があってすったもんだした所だ。干拓事業は、戦後の食糧難から米余りへと状況が変化したのと、反対派の激しい抵抗もあって中止となった。

下手したら、ここは田圃になっていたのかもしれないんだな。事業が中止になってくれて、本当によかったな、と思う。



同級生が体を壊して引きこもりになっている。友だちと見舞いに行こうと言っていたのだが、それを固辞されたという。友だちとLINEでやり取りをしながら、湖面を眺める。「会えば何とかなるのではないか」と「弱っている姿を無理に見ることはないのではないか」との間で気持ちが揺れる。「彼と会って話がしたい」というのは、我々のエゴなんだろうか。


日曜日は筑波山が見える所にした。

何と言っても私の地元から見る筑波山がいちばん美しい。しかもそれを霞ケ浦越しに見ることができるのだ。


ごろりと横になる。少しだけうとうとする。莫迦みたいに身も心も霞ケ浦にあずける。

この日もボラがひっきりなしに跳ねる。ボラが跳ねるのは、体の寄生虫を落とすためだ、いやただ単に遊んでいるんだなどと、諸説ある。私としては遊んでる説が好きだな。


二日間、たっぷり霞ケ浦の風に吹かれた。こういう時間が必要だったのだ。