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2009年1月23日金曜日

少年期の桂文楽2

多勢商店で人気者になった益義だが、やがて芝居見物など夜遊びに夢中になる。
益義15の年。夜遊びで締め出しを食った彼は、そのまま京浜電車で東京へ帰ってしまう。
結局、店を辞めてしまうことになるが、主人はこんな益義に、今までの給金にボーナスを加えて届けてくれる。主人の人柄と、いかに益義が可愛がられていたかを示すエピソードだ。
その後、東京でいくつかの店に奉公するが、どれも長くは続かない。器用な質で、そのまま精進すればいい職人になったであろうものを、調子に乗って義理を欠いた仕事をしたりして続けられなくなってしまうのだ。
明治生まれの芸人の略歴を読むと、奉公をするがどこも長く続かず、転々と職を変えた末芸人になるといった例が多い。(最も甚だしいのが、文楽門下の七代目橘家円蔵である。)
色川武大は、文楽と志ん生を称して「普通人のはずれ者」と呼んだ。確かに、はずれ者に違いない。しかし、彼らが勤勉な商人や職人ではなかったおかげで、我々は得難い落語家を得ることが出来たのだ。
この転々とした時期に、益義は四代目橘家円喬を知る。
四代目橘家円喬。三遊亭円朝門下で、こと話術にかけては師匠を凌ぐと言われた不世出の名人である。後に、文楽・志ん生・円生という昭和の名人が、そろって円喬を「自分が聴いた中では最高の名人」として尊敬した。初代円右、三代目小さん、四代目円蔵、三代目円馬など錚々たる名人が居並ぶ中で、三人そろって円喬と言うところをみると、そのうまさは際立っていたのだろう。曰く、『鰍沢』で川の水音が聞こえた、曰く『金明竹』で二階から水が垂れる様子が見えた、等々まるで左甚五郎のような神業のごとき描写力が、昭和の名人の口から語られたものだった。ただ、円喬、人柄としては所謂「性狷介、自ら恃むことすこぶる厚く」といった人で人望はなかったらしい。嫌なやつだけどうまい、うまいけど嫌なやつだ、という評判がつきまとったというが、それを芸の力で圧倒していたのだろう。(タイプとしては六代目円生、あるいは当代談志か?)
益義は、多勢商店で「おしゃべり小僧」と言われていた頃、おかみさんから「どうしてお前のおっかさんは、お前を噺家にしなかったのだろう」と言われたという。その時、彼は落語に興味を持ってはいなかった。が、円喬を知ってから「自分は何者になるべきか」ということを心のどこかで意識し始めたのかもしれない。

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