中断していた島崎藤村の『春』をやっと読み終える。
教え子との実らぬ恋。敬愛する青木(北村透谷がモデル)の壮絶な自殺。没落する生家。長兄の受難。これから自分は何者となるかという苦悩。藤村の分身である岸本捨吉の精神的闘争の遍歴は、この後『家』、『新生』へと続いていくが、この『春』には若さ故の青臭さがある。
この人の小説を読むと、煮え切らない男の愚痴話を聞かされているようだ。読んでいて楽しくない。『春』の教え子への恋、『家』の生活苦、『新生』の姪との関係、どれもこれも自分で選んだものじゃないか、と言いたくなる。
食べ物に例えると不味い。苦悩に太宰治のような甘美な酔いはない。ただ、この不味さ、癖になる。本来、苦悩とは不味いもののはずだ。藤村はそこに甘い味付けをしない。不味いものを不味いまま出してくる。この不味さは本物だ。
父と姉は狂死した。父は実の妹と関係し、母は不義を働いた。不義の子である兄は放蕩の末廃人となった。名家の澱んだ血に搦め捕られるように、後に自らも姪と間違いを犯す。
身勝手なものを美化しない。身勝手なまま出してくる。その上で「自分のようなものでも何とか生きていたい」と居直る。見事だと思う。困難から目を背けても、逃げてでも、生きる。美しく死ぬことなんかしない。
自らの醜さに身悶え、生き恥をさらし、しかし、それすらも商売道具にしてしまうしたたかさ。島崎藤村の凄みはそこにある。
ふと、新潮文庫の出版リストを見ると『新生』がなくなっていた。相当問題のある内容だし、桂文楽の『按摩の炬燵』みたいな扱いをされているのかもしれないなあ。
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