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2009年2月5日木曜日

少年期の桂文楽3

東京で職を転々とした益義だが、16の年、東京の家を出て横浜に舞い戻り、いとこがいたマルカという米相場の店に勤める。益義が女の味を知るのはこの頃。ある女郎屋で花魁の方からのお見立て、といえばとんだ「明烏」だが、相方は30余歳の大年増であった。後年、年上の女性と数々の浮き名を流す文楽の、最初の女もやはり10以上も年上の女だった。
しかし、このマルカ、実態のないノミ屋で、程なく廃業。益義は方々の株屋を泊まり歩くうち、土地のやくざ、カネキという家に出入りするようになる。下働きをしたり、博打の人集めをしたり、もうこうなると立派な不良少年ですな。
そのうち、益義はこの親分の養女といい仲になる。得意の絶頂にあったが、やがて事が露見し、彼は袋だたきにあった挙げ句、放逐される。後年の艶福家、桂文楽の初めてのしくじりだ。
手痛い制裁を受けた後、ぼんやりと湯屋に入ったが、番台のおかみさんに声を掛けられ改めて自分の体を見、その傷の惨たらしさに益義は気を失ってしまう。傷が治るまで、その湯屋で厄介になって、やっとのことで東京へ帰った。その時迎えてくれた母親に「お前が手水鉢の側の南天の木に縛られてみんなにぶたれている夢を見て、心配していたんだよ」と言われ、彼はその場へ泣き崩れたという。

閑話休題。文楽の盟友、五代目古今亭志ん生は、15歳で家を出て、そのまま生家には帰ることがなかった。
志ん生は自ら家を捨て、文楽はいきなり奉公に出されるといった形で家に捨てられた。二人はその後、同じように明治の不良少年となり、芸人としての道を歩むことになる。
志ん生は、人に見放されようが己を貫き通して自分の道を切り開き、文楽は自らの才覚で周囲を味方につけながら自分の道を切り開いていった。一方は自ら家を捨てた者、一方は家に捨てられた者の、精一杯の「普通人のはぐれ者」としての生き方だったに違いない。

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