だいぶ前の話だが、八光亭春輔の落語を聴いて驚いた。師匠である八代目林家正蔵に、実によく似ているのである。口調といい、間の取り方といい、声がひっくり返る所まで、そっくりなのだ。
春輔といえば、真打昇進時に、故三遊亭圓生から名指しで、「あれはセコでげす。」と言われたことでその名を知られた。考えてみれば、これほど不幸な名の知られ方はない。この時の大量真打昇進問題で、圓生は落語協会を離脱するという大騒動となった。もう30年も前の話である。
春輔の噺は、正蔵そっくりであったが、少しもいやな感じはなかった。師匠への敬慕の情が感じられて、かえって暖かい気分になった。
師匠そっくりといえば、もう一人、思い出さずにはいられない落語家がいる。春風亭一柳。圓生門下では三遊亭好生といった。人呼んで「圓生の影法師」。師匠圓生を尊敬すること神の如し。その結果、口調から高座における立ち居振舞い、何から何まで圓生に似てしまった。
彼の不幸は、それほどまでに尊敬した師に、徹底して嫌われてしまったことだ。この辺のことは、彼の著書「噺の咄の話のはなし」に詳しい。特に圓生の落語協会離脱時の一柳への仕打ちは、残酷といっていい。
では、なぜ圓生が、そんなに一柳を嫌ったのだろうか。自分を敬愛し、その芸を忠実になぞる弟子は、異端を嫌う圓生にとって、可愛い存在であってもよさそうなものなのに・・・。
ここで私は、昭和の名人、六代目三遊亭圓生が、若い時分にはまるで売れなかったという事実に思い当たる。古今亭志ん生も売れなかったが、彼には「売れなかったが、噺は本寸法でうまかった」という評価がある。しかし、こと圓生に関しては、「気障なばかりで、まずかった」という話ばかりなのである。 もしかしたら、圓生は、一柳に若き日の自分を見てはいなかったか。昭和の名人として落語界に君臨し、誰もがその至芸を賞賛する圓生にとって、一柳の存在は、忌まわしき過去を思い出させるものだったのではないか。もちろん、これは推測でしかない。危険な見方かもしれないが、私はそう思わずにはいられない。
一柳は、圓生が死んでほっとした、と書いた。師匠との愛憎からも、それで解放されるはずだった。しかし、程なく彼は自ら命を絶った。「自分の間(ま)が、確立できない」と悩んでいたという。一柳は、ついに「師匠の影法師」から解放されることはなかったのだ。
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