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2009年6月30日火曜日

三笑亭夢楽師匠のこと

私が師匠と呼ぶ噺家は二人いる。七代目橘家圓蔵師匠と三笑亭夢楽師匠である。
どちらも、大学の落研の技術顧問だった。
圓蔵師匠は私が2年の時亡くなった。その後任が夢楽師匠だった。
圓蔵師匠が亡くなったのが5月。6月には我が落研は「みな好き会」という定例の対外発表会を開いていた。私はその年、『牛ほめ』で初高座を踏んだ。
対外発表会には技術顧問が補導出演する。この時は圓蔵師匠に代わって月の家圓鏡師(現八代目圓蔵)に出て頂いた。慌ただしく楽屋入りした圓鏡師は、『猫と金魚』で客席を沸かせ、あっという間に帰っていった。圓鏡師には売れっ子の輝くばかりのオーラがあった。高座のそでから観るプロの芸は、客席から観るそれより数倍凄かった。
夏には夢楽師匠の技術顧問就任が決まった。OBの方々の尽力によるものだったと聞いた。
夢楽師匠になって、我々の合宿は劇的に変わった。
それまで、合宿の発表会では真打ちが上がるまで部員は正座で噺を聴かなければならなかった。時にそれは1時間以上に及び、発表会は部員にとって地獄の時間に他ならなかった。
圓蔵師匠は発表会で全員の噺を聴くことはなく、選抜された二人ほどが師匠の前で噺を披露した。
しかし、夢楽師匠は発表会に進んで参加し、全員の噺を聴いてくださった。そして、正座をやめさせた。噺を聴くということを最優先させるということが目的だった。
噺が終わると、一人一人に丁寧な批評をしてくださった。その教えはとても論理的で分かりやすかった。私たちは、職人が歩くときはやぞうを組むということや天秤の担ぎ方といったもの、上下や目線といった基本的なことを丁寧に教えられた。
当然のことながら、夢楽師匠は圓蔵師匠より若く、その分、フラットな立場で私たちに接してくださったのだろう。
私たちは幸福だったと思う。圓蔵師匠のように遙かに仰ぎ見る存在と、私たちの地平まで下りてきて温かく手を取ってくれる夢楽師匠と、どちらも経験することができたのだから。
合宿の夜、夢楽師匠は一緒に風呂に入ろうと我々を誘った。師匠は10代から70代までの男女を問わず相手にし、ある時は、立川談志に「一回だけ、お願いだから」とパンツ一丁で迫って、「兄さん、洒落にならねえ」と言われたという逸話を持つ性豪として知られる。我々は、悲壮な決意を持って風呂に入った、というと大袈裟か。もちろん、そんなことは杞憂にすぎず、楽しい一時を過ごしたし、いい思い出をいただいた。ロセンは確かに見事だったが。…どうもすみません。
とにかく、夢楽師匠には、スケールの大きな、人を引きつける魅力があった。談志も志ん朝も師匠を慕っていたという。私も、ほんのささやかな交流しかなく甚だおこがましいが、何となくその気持ちが分かるような気がする。夢楽師匠の側にいると、太陽の光を浴びているように、温かい穏やかな気持ちになれた。それは師匠に接した誰もが感じることだと思う。

この話はつづきます。

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