文楽には3人の師匠がいた。
初代桂小南、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)、そして、五代目柳亭左楽である。
現在はあまり師匠を変えるといったことはないが、この時代はそう珍しいことではなかった。五代目古今亭志ん生にも、二代目三遊亭小圓朝、六代目金原亭馬生(後の四代目古今亭志ん生、人呼んで鶴本の志ん生)、初代柳家三語楼と、3人の師匠がいる。
さて、五代目左楽である。文楽は、この人を終生「人生の師」と呼んだ。
長い間、五代目といえば左楽のことを指した。それは歌舞伎界において、六代目といえば尾上菊五郎を指すが如くであった。
左楽は明治5年生まれ。文楽より20歳年長であった。春風亭柳勢、伊藤痴遊、四代目左楽と、彼も3人師匠を変えている。日露戦争に従軍し、その体験談を語り大いに売れた。落語家としてよりも、政治的手腕に長け人望厚く、リーダーとしての評価が高い。
文楽が左楽の門に入ったのは、東京落語界が演芸会社派と睦会に分裂したことがきっかけだった。当時の師、さん馬が血判まで交わしたにもかかわらず、演芸会社に寝返ったことが我慢できず、左楽の元へ走ったのである。
左楽は、当時翁家さん生を名乗っていた文楽を「亭号などそのままでいいから、うちでよければおいでなさい。」と暖かく迎えた。そして、その言葉通り、翁家馬之助として真打ちに昇進させた。その際の高座では「この馬之助、実はこれこれの事情でうちにおりますが、どうかお客様、お立ちになるのならあたしが喋っているうちにお立ち頂いて、あれが上がりましたら、どうぞ最後まで聞いてやってくださいまし。これは左楽のお願いでございます。」と言って、毎回客を泣かしたという。
その後、以前にも書いた通り、強引な形で八代目桂文楽を襲名させる。この時も「噺は小味ですが、どうぞ聞いてやってください」と心のこもった口上を述べた。
文楽は、左楽について「恐くって恐くって、実に恐くって、それでいて別れられない人でした。情があってね。」と言っている。
実際に左楽の人間の大きさは相当のものだった。三代目小さん、二代目燕枝、初代圓右といった名人に伍して、左楽がいなければ顔付けがまとまらないと言われたほどだ。
睦会においても、文楽、柳橋、柳好、小文治を「睦の四天王」として売り出したり、落語家の高座への登場に出囃子を使ったりするなど、プロデューサーとしての手腕も発揮した。(それまで落語家は「しゃぎり」という太鼓で高座に上がっていた。)
そして、睦会のリーダーとして君臨する左楽に付き従いながら、文楽はそのリーダーシップを存分に吸収する。
昭和12年、睦会は解散。六代目春風亭柳橋の芸術協会に合流した。天下の五代目が、20歳以上も年下の柳橋の軍門に下ったのだ。この時から左楽は長い余生に入ったのだと思う。
昭和28年、左楽は引退興行を目前にして82歳で死ぬ。その葬列は、清水町の自宅を出発し池之端から鈴本演芸場の前を通り稲荷町の菩提寺へと進んでいったが、長さ200メートルに及んだという。落語家の葬儀としては、まさに空前にして絶後であった。
文楽はこの時、親族と共に笠を被り人力車に乗った。文楽が左楽の門に入って30年余、中途の弟子ではあったが、その間に、それ程の信頼と権威を、文楽は自らのものとしたのだった。
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