文楽には、もう一人「芸の師」というべき人がいた。三代目三遊亭圓馬である。
前座の頃、みっちりと基礎をたたき込まれた。仕草では手が腫れ上がるほど物差しで叩かれた。「ええ」という口癖を矯正するのに何十個のものおはじきをぶつけられた。ある時、ぼんやりと庭の池を眺めていると、いきなり後ろから背中を押された。「あっ」と叫んで池に落ちて、ずぶ濡れになって振り返ると圓馬がいた。「いきなり何をするんですか?」と文楽が抗議すると、「さっきの『あっ』と言った間はよかったなあ。あの間を忘れるなよ」と言われた。
「どうしてあたしにだけ、あんなに厳しいんだろうと思いました」と文楽は言う。
文楽が二つ目に昇進して間もなく、師匠桂小南が東京を捨て、文楽はやむなく旅に出る。4年経って旅から帰ると、圓馬は四代目橘家圓蔵との確執で文楽と入れ替わるように旅に出ていた。
文楽は翁家さん馬の弟子になった後、五代目柳亭左楽の門に入り、翁家馬之助で真打ち、やがて八代目桂文楽を襲名する。一方圓馬は生まれ故郷大阪に帰り、二代目圓馬から譲り受け三代目三遊亭圓馬を襲名する。
文楽が後に十八番と言われた数々の噺を圓馬に稽古して貰うのは、実はこの文楽襲名以後においてである。
文楽は年に2回吉本に呼ばれ、上方の寄席に出演したが、定宿、初勢旅館から、萩の茶屋の圓馬の家へ行く道しか、文楽は大阪の地理を知らなかった。それ程熱心に圓馬の元へ通い詰めたのだ。
圓馬から授けられた噺は、『愛宕山』『景清』『素人鰻』『馬のす』『富久』等々、いずれも珠玉の名作と言っていい。稽古の後、文楽はその台詞を旅館で原稿用紙に書き写した。尋常小学校を10歳で中退した文楽にとって、それは苦しい作業だったに違いない。そして、その噺に独自の刈り込みを施し、徹底的に磨く。こうして、所謂文楽十八番は完成する。このため、圓馬の噺より文楽のそれは、いささか神経質的にはなったが、精緻な工芸品の如き輝きを持った。人は「圓馬の豪放な部分を三代目金馬が、繊細な部分を文楽が受け継いだ」と言った。つまり、それ程、圓馬の芸には幅があり、大きなものだったということだ。
晩年、圓馬は中風を患い、言語障害となる。それでも文楽は、大阪へ行くと圓馬の家へ通った。文楽の顔を見るといつも圓馬は喜び、稽古をやろうと言った。しかし、舌がもつれて噺にならず、やがて圓馬は悔し泣きに泣く。文楽もやはり、泣かずにはいられなかった。帰りには文楽を送っていくと言って聞かなかったという。鞄を持つとさえ言ってくれたという。いい話だが、身を切られるように辛い話である。
とにかく、文楽は圓馬に惚れ、徹底的に食らいついた。無我夢中で圓馬の芸を吸収しようとした。そして、迷うことなく、圓馬を目ざし精進を重ねた。
有名な話だが、常に文楽はこう言っていた。「汚いたとえですが、もし圓馬師匠に俺のげろを舐めろと言われたら、あたしは舐めます。」
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