ここのところ、芥川龍之介と志賀直哉を読んでいる。改めて読むと、それぞれに面白い。
『暗夜行路』の解説を阿川弘之が書いているのだが、その中にこんなエピソードがあった。
ある時、芥川が夏目漱石に「志賀さんのような文章を、私はとても書けない。ああいう文章はどうやったら書けるのですか。」と訊いたという。漱石はそれに対しこう答えた。「あれは文章を書こうとしているのではなく、自分の思ったままを書こうとしているのだろう。私にもああいうのは書けない。」
こうして見ると、芥川と志賀というのは、対照的な二人だなと思う。
芥川は、あくまで意識的だ。細部にまで神経を張り巡らせ、ひとつひとつの小道具に意味を持たせる。様々な意匠を凝らした絢爛たる文章を積み上げる。構築された作品世界は、もはや一点一画をも揺るがせにできない完成されたものになる。
志賀は、漱石の言を借りれば、思うがままに書く。と言っても気楽に、というわけではない。自分が思うままに忠実にということだ。そのためには、調子から何から何まで、文章はすべて自分のものになっていなければならない。その自分へのこだわりのためには、辻褄合わせも読む者への説明も不要になる。
だからだろうか、私は芥川に多少の息苦しさを覚え、志賀に多少の傲慢さを感じる。
落語家に例えれば、細部にまで完璧を期す芥川は桂文楽であろうし、あくまで自己にこだわる志賀は古今亭志ん生であろう。そういえば、彼らは同時代を生きた人たちでもある。ちなみに、志賀は明治16年で、八代目桂文治・初代柳家小せんと同年の生まれ。志ん生が明治23年、芥川と文楽は共に明治25年生まれである。(ただし芥川も志賀も、文楽志ん生のような明るさはない。当たり前か。)
そう、私は明治・大正・昭和初期ぐらいまでの風俗や雰囲気が好きなのだ。桂文楽の噺(『つるつる』や『船徳』『明烏』、『かんしゃく』に『厩火事』等々)に、私は明治大正の近代文学の香りを感じる。そんな所も、私が桂文楽に惹かれる所以なのかもしれない。
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